平成24年12月15日(土)  目次へ  前回に戻る

 

月曜日の足音が聞こえ始めた。うちゅになってくる・・・。

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でも、今日のところはまだ大丈夫なので積極的に行動し、以下のことを勉強ちまちたー。

上古之世、有阿摩美久者。前往儀来河内、請乞稲種。

上古の世、阿摩美久なる者有り。前(さき)に「儀来河内」に往き、稲種を請乞す。

むかしむかし、アマミクさまという方がおられました。この方、以前「儀来河内」に行かれて、そこで稲の種をもらってきたのじゃ。

「儀来河内」は大阪府の一部ではありません。「ぎらいかない」と読んでください。「ニライカナイ」のこと。沖縄島の東方、あるいは北方などに比定される海の彼方の祖つ国――根の国ーーのことである。

来則伝授播種稲穀之法、于玉城郡百名邑人。

来たりてすなわち稲穀を播種するの法を、玉城郡百名邑の人に伝授す。

アマミクさまはニライカナイからやってみえて、これを植えて栽培する方法を玉城郡百名邑のある人に教授したのであった。

「玉城郡百名邑」は現在の南城市・百名(ひゃくな)集落である。「ある人」はこの段階では名前が無いので、めんどくさいので、こいつをコドモ、すなわち「南城童子」ということにします。

その方法というのはどういうものであったか。南城童子が教わったのは、

@   まずは溝を掘って小さな平地を造りまちゅ。これを「田」といいまちゅ。

A   次のこの「田」に、泉から湧き出す水を引いて、これを水で浸すのでちゅ。

B   水に浸した「田」の土に小さな穴をあけて、そこに「イネの種」を播くの。これでこの「田」は「苗代」になりまちた。

C   一百日ほどほうっておきまちゅと、イネの種から小さな芽が出てきまちて、苗(「稲秧」)ができまちゅ。

D   この苗を、もう少し大きな「田」(これも水に浸しておきまちゅ)に植え替えまちゅ。これを「田植え」と申しまちゅ。

このとき、アマミクとその指導を受けた童子は、

・浜川浦原の親田

・高疇の疇嘉間田

の二つの田に苗を植えかえたのであった。

E   あとは成長を待って、稲刈りをしまーちゅ。後世では草取りとかムシ追いとかいろいろたいへんになりまちゅが、最初のころは放っておけば育つものなのでみんな楽チンでちた。

以上。

すなわち、田植え法である。それ以前に沖縄の地に陸稲の直播き法などが伝わっていたかどうか気になるところですが、技術というのは孤立しては伝わらず、必ずそれを使う生活文化(この場合は水田栽培・漁撈型の文化複合体)と一緒に伝わるものです。なので、焼畑陸稲農法を用いた文化複合体は伝わっていないのでしょう。

(↑24.12.17補記:訂正します。沖縄には焼畑農法は早くに伝わっており、それを伝えるのが「キナ」「ケナ」地名である、「キナ」「ケナ」は焼畑をいう言葉で、本土の「クノ」がこれと同根ならん、とのこと(伊波普猷先生「をなり神の島」2(平凡社東洋文庫) p237〜p240を参照せよ))

「よし、成功したぞ。童子よ、おまえの協力のおかげじゃ」

と水田栽培の成功にしましたので、阿摩美久さまは

賜名其人、曰米之子。

その人に名を賜いて曰く、「米の子」と。

童子に「米の子」という名前をお与えになられた。

「やったー! おいら、今日から米の子ちゃんでちゅー!」

と童子は大喜び。

これより以降、百名邑では、毎年田植えのときには、佳き日を選んで村中の人が上記の「浦原の親田」と「高疇の嘉間田」に集まりまして、最初の一苗を「米の子」が植える。そして

百姓造神酒乙片、以祭泉口。

百姓、神酒乙片を造り、以て泉の口を祭る。

人民どもは自分らで調製した神酒いくばくを持ってきて、その田に水を落とす水口の泉のところで祭りを行うのである。

この水口の泉が「受水・走水」(うきんじゅ・はいんじゅ)である。

祭りの終わりに人民どもは

皆唱田植歌。翌日、百姓各往田畝、而挿栽稲秧也。

みな、田植歌を唱えり。翌日、百姓おのおの田畝に往き、稲秧を挿栽す。

みんなで「田植えの歌」というのを歌うのである。その翌日、人民どもは、それぞれの管する田圃に行き、田植えをはじめるのであった。

この祭り、阿摩美久神話を開闢説とする第一尚氏、その後をおそらく高級神女どもの神告によって襲った第二尚氏の間、首里王府にとっても重要な祭りであったから、一年おきに国王、聞得大君加那志らが行幸して、その神の降りる場を示すしるし(石など)を

撫焉。

撫づ。

すりすりとお撫でになったのでございました。

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「琉球国旧記」巻六より。当地を実際に検分して、勉強してきまちたよー。

 

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