平成24年12月14日(金)  目次へ  前回に戻る

 

今日はステーキ食った。苦しい。やっと週末まで来たのに、もうすぐまた月曜日が・・・

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月曜日のことは日曜日から悩むことにして、今夜のところは静かに読書でもするか。

破屋寒毡二十年、  破屋寒毡に二十年、

五更燈火伴陳編。  五更の燈火は陳編に伴う。

何当還了読書債、  何に当たりてか読書債を還(かえ)し了して、

花影日高窗下眠。  花影、日高きに窗下に眠らん。

「毡」は毛布。「陳編」の「陳」は「古」の意で、「陳編」は「古い書物」のこと。

 ぺしゃんこの毛布を敷いただけの破れた家の中で、もう二十年にもわたって。

 深夜の灯りはわしが古い書物を読むのに付き合ってくれておる。

 どれだけ書を読んだら、わしは追われるように読書するのを止めて、

 お日さまのあたたかな昼間から、花の影の窗の下、のんびりと眠っていられるようになるのであろうか。

「読書債」は要するに「何者かから何かを借りて、その返還のために読書をする、という契約を結んでいること」なわけですが、「追われるように読書する」と訳してみましたよ。

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鉄兜・河野俊蔵「夜読」

―――そんなの自分で止めればいいじゃないか。

などと思えるひとは羨ましい。わたくし肝冷斎も河野鉄兜さんと同じタイプなので、気持ちはようくわかります。追われるように野球を観て、追われるように漢文読んで、明日も追われるように観光をせねばならない。いやー、つらいですわあ。

みなさんはそういうこだわりが無くてよろしいですなー。わはははは。

なお、河野鉄兜は文政八年(1825)播磨姫路の生まれ、父・河野三省は医を業とす。鉄兜ははじめ讃岐の吉田鶴仙に学び、後、梁川星岩に詩を学ぶ。十四歳のとき一夜に百編の詩を作り、「神童」と喧伝された。後、江戸に出て儒学を学び、嘉永四年(1851)林田藩儒、さらに九州、四国等に遊び、安政二年に播磨に帰って「新塾」を開き郷里に訓う。慶應三年(1867)、第二次長州征伐の喧噪の中で病没した。「鉄兜遺稿」等がある。

せっかくなのでもう一編挙げます。これも上の「夜読」詩同様、平明で味わい深い。

清閑自比在家僧。   清閑にして自ら在家の僧に比す。

廃読除吟百不能。   読むを廃し吟ずるを除き、百あたわず。

落葉撲階秋雨細、   落葉は階を撲(う)ちて、秋雨は細く、

破窗吹起夜深灯。   破窗 吹き起こす夜深きの灯しび。

 すかっと何もやることもなく、僧侶、それもお寺にも属していないひとみたいにヒマですよ。

 もう読書もしてないし、詩を作るのもやらないし、その他もろもろあらゆることをやろうとする気になりません。

 ぼけーとしておりますと、ほら。

 落ち葉が縁側を叩く音が聞え、秋の雨はそぼ降り、

 破れた窗から入りこんだ風に吹かれて、また夜半の灯しびが揺れる。「清閑」

ようやく読書に追われるのから脱け出せたようである。ついでに百のもろもろのことからも脱け出せたようでちゅ。コドモに戻れるかもよ。同慶の至り。

ちなみに毎年同じこと言っているような気がしますが、わしは旧暦なので、12月14日は討ち入りに関連した話、というような決まりはありませんので悪しからず。

 

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