今日は飲み会。いつもどおり頭爆痛。なんか問題あるんでしょうけど・・・。とにかく明日は金曜日・・・
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頭痛いんで軽くいきます。
清の嘉慶年間(1796〜1820)ごろ、新安に汪某という少年がいた。
そのころはそこそこ有名な少年で、わし(←梁恭辰というひと)の村にもその名が聞こえていたほどである。
何故なら彼はいわゆる神童で、
天資頴異、過目成誦。八歳能文。
天資頴異にして目を過ぐれば誦を成す。八歳にして文を能くしたり。
生まれつき驚くべき秀才で、一目見た文章はすぐに記憶してしまい、暗唱することができた。八歳のときには科挙試験の答案を書くことができたほどであったのだ。
ところがこやつは少年のくせに
自恃其才、侮慢師長。
自らその才を恃み、師長を侮慢す。
自分の才能に自信があるので、学校の先生たちをバカにしていた。
古典チャイナの読書人は、科挙試験を受ける前に地方の学校に所属する学生(「生員」という)になります(これになるのも一苦労なのですが)。なので、汪某のような大秀才でも、一応、先生がいたのです。もちろん地方の学校の先生なので、確かに科挙試験を受けて進士さまになろう、というレベルの学生から見れば水準は低かった。
ある日、汪少年は先生の講義中に
(下らん。実に下らんよ)
と思いながら、
呵欠。
呵欠す。
「ふぎゃあ」と大あくびをした。
と、その瞬間―――。
口中忽跳出一物。
口中より忽ち一物を跳ね出だす。
口の中から、突然なにやら飛び出してきたのであった。
それは一二寸(5〜6センチ)の大きさながらも、
形如人。
形、人の如し。
ニンゲンの姿をしていた。
冠や衣服もつけており、また風貌は汪自身に似ていたのである。
これが、机の上で汪を指さして言う、
汝本状元、因侮慢師長、陰司已削去。吾亦不随汝矣。
汝、もと状元なるも、師長を侮慢せるによりて、陰司すでに削去せり。吾もまた汝に随わず。
「おまえは本来、科挙試験に首席で合格する運命もありえたのでちゅが、先生をバカにちまちたからね。あの世のお役所ではその運命であることを、既に予定表から削除してしまいまちた。おいらももうおまえと一緒にいるのはイヤでちゅよー!」
そう言うなり、ぴょーん、と机から飛び跳ねて、どこかに行ってしまった。
隣席の某が、確かにそれを見たというが、ほかには誰もそれを証しする者はいない。
なぜなら、当事者の汪自身が、その時以降、妙にぼんやりした顔つきになり、何か問いかけてもはかばかしくは答えず、
翻巻不識一字。
巻を翻すも一字を識らず。
どんな書物も開いても、一文字も読めなくなってしまった。
という状況で、ほんとうにそんなことがあったのかどうか、確認のしようも無くなったのであるから。
汪は中年まで何の取り柄も無く生きたが、その父母が相次いで世を去ると、
窮餓終其身。
窮餓してその身を終う。
食べる物も無くなり、栄養失調で死んだ。
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清・梁恭辰「北東園筆録」続編巻六より。梁恭辰は清の後半、嘉慶から道光の時代のひと、若きより「因果諸書」(民間に伝えられた不思議な因果応報の物語。要するに怪異譚)を読むのを好み、自らも二十年にわたり各地を遊学する間に見聞した同様の事件について、多数の記録を集めた。これを取りまとめたのが「北東園筆録」(正編・続編・三編・四編)であり、道光癸卯年(1843)の自序があります。アヘン戦争の直後ですね。内容はそこそこオモシロいが、これでもかこれでもかと同じような話が厖大に出てくるのでかなり飽きてしまいます。
この汪少年の症状はなんかの精神病理的な解説ができるようにも思いますが、まあとりあえず
「先生」と呼ばれるバカには頭を低く
という教訓譚なのでございましょう。