平成24年12月9日(日)  目次へ  前回に戻る

 

今日もだいたいいい日でした。本土は寒いんだそうですね。しかし夕方になってくると明日が日曜日でないことがのしかかってきて・・・

はあ・・・。きょ・・・今日の更新は、ち・・・力を振り絞って・・・書・・・き・・・ま・・・す・・・。

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六朝の宋の時代のことでございます。江夏王の劉義恭

性愛古物、常遍就朝士求之。

性として古物を愛し、常に遍(あまね)く朝士に就きてこれを求む。

「性愛」と書いてありますのでドキドキしますが、これは「うまれつき・・・が好き」という意味であって、「性的方面での愛」という意味ではありませんので念のため。

とにかく古い物が好きで、いつも、朝廷の貴族ども誰彼と無くそういう物があったら譲ってくれるように言っていた。

皇族からの求めですから、貴族ども、保有している昔からの伝来品を次々に献上した。

当時侍中の職にあった何勖(か・きょく)もその家に伝わっていた名宝を献上したのであったが、江夏王は

「いや、まだ持っているであろう」

とさらに求めて止まない。

何勖は用務あって郊外に出たが、その帰りの道端に

○狗枷(いぬの首輪)

○敗犢鼻(やぶれたフンドシ)

が落ちていたのを見つけ、随従に

「それを拾っておけ」

と命じた。

数日後、

飾以箱送之。

飾りて箱を以てこれを送る。

美しい二つの箱の中に上記の二品をそれぞれ収めて、江夏王のもとにお贈りした。

その送り状に曰く、

今奉古物。

今、古物を奉る。

ここに、古い物を献上いたします。

とあり、一つの箱には

○李斯狗枷(李斯のいぬの首輪)・・・補注☆参照

いまひとつの箱には、

○相如犢鼻(相如のふんどし)・・・補注☆☆参照

と書いてあった。

江夏王、それを見て大いに満足し、箱を開いて中のものを撫ぜたりさすったり香を嗅いだり頬を寄せたりして愛玩したのであった。

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明・馮夢龍「古今譚概」巻十五より。朱揆「諧録」(かいきゃくろく)に収める話という。

笑い話らしいのですが笑えますか? わしはこだわりを持つタイプなので江夏王の気持ちがよくわかって笑えませんよ。ほほえましい、という意味では笑えますが。

ということで、ち・・・力を尽くしても、こ・・・こんなことしか書けなかった・・・の・・・だ・・・、わ・・・し・・・は・・・。

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補注です。

「李斯のいぬの首輪」について(「史記」巻87「李斯列伝」より)

秦の始皇帝の宰相であった李斯(り・し)は、法家の徒で、帝を唆して兄弟弟子の韓非子を殺させたり、始皇帝没後に宦官の趙高と謀って、帝の遺詔を矯めて二世皇帝を建て、権勢をほしいままにしましたが、やがて趙高との関係が悪化して、ついに死罪に処せられることになった。

咸陽の市場で腰斬の刑に処せられるとき、ともに刑せられる次男の方を振り返り、

吾欲与若復牽黄犬倶出上蔡東門、逐狡兎、豈可得乎。

吾、若(なんじ)とまた黄犬を牽きてともに上蔡の東門を出で、狡兎を逐(お)わんと欲するも、あに得べけんや。

「おまえともう一度、黄色い狩猟用のイヌを引き連れて上蔡の東の門から郊外に出、ウサギ狩りをしたいと思っていたが、どうやら難しそうじゃのう」

と言うと、

遂父子相哭而夷三族。

ついに父子あい哭して三族を夷(やぶ)らる。

とうとう父と子とお互いにその死を悼んで泣きあい、三親等までの一族が皆殺しとなったのであった・・・・。

李斯が息子と以前狩りに行ったときに、ひきつれていた黄色いイヌをつないでいたのが、李斯のイヌの首輪。→江夏王のころより約650年ほどむかしの物

☆☆「相如のふんどし」について(「史記」巻117「司馬相如列伝」より)

前漢の大文学者で外交家であった司馬相如は、若いころ不遇で、あふれるほどの才能を持ちながら貧しく、大富豪の卓王孫(卓の大だんな)の家で食客となっていた。卓王孫の娘・文君は若くして未亡人となり、卓家に戻って来ていたが、ある日、相如を垣間見て、そのおとこぶりのいいのに惚れ込んでひそかに通じるようになり、

文君夜亡奔相如。

文君、夜、亡(に)げて相如に奔(はし)る。

文君は、ある晩駆け落ちして相如のところに転がりこんでしまった。

卓王孫は怒り、二人を追い出してしまったので、二人はとりあえず文君が持ってきた財宝を売って暮らしていたが、やがてそれも尽きると、再び卓家の近くに戻り、

買一酒舎酤酒、而令文君当鑪、相如身自著犢鼻、与保傭雑作滌器於市中。

一酒舎を買いて酒を酤(う)り、文君をして鑪に当たらしめ、相如は身自ら犢鼻を著けて、保傭雑作とともに市中に器を滌(あら)う。

一軒の酒場を買い取って、居酒屋を開いた。文君にカウンターに座らせて男どもの相手をさせ、相如はみずからフンドシ一枚になって、雇われ人たちとともに市場で酒器を洗ったのであった。

卓王孫は娘がそんなことをしているの知って家に閉じこもってしまったが、兄弟に諭されてついに経済的な援助をするようになった。ここにおいて相如は文学のことに打ち込むことができるようになり、やがて文学の力を以て武帝の側近に取り立てられたのであった・・・・。

このとき司馬相如の穿いていたフンドシである。→江夏王のころより約550年ほどむかしの物

 

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