平成24年11月22日(木)  目次へ  前回に戻る

 

「神は細部に宿る」と申します。細かいことは大切ですね。

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「市史」とか「村史」あるいは「社史」などというものがたくさんあります。沖縄ではさらに「集落史」も多く編まれているのでありますが、

州邑之有志、自周外史氏始也。

州邑の志有るは、周の外史氏より始まるなり。

州(郡)や邑(県)の歴史書が作られるのは、周代に置かれたという「外史氏」のしごとからはじまっているのである。

地方のことの記録である「外史」をつかさどるのが「外史氏」。これに対して、

若内史氏則紀王之事矣。

内史氏のごときはすなわち王の事を紀するなり

「内史氏」の方は、周の王さまに関わる事件を記録したのである。

王之事而紀也、在天下者異乎哉。

王の事にして紀するなり、天下の在るものの異なることあらん

王さまに関わる事は記録されるのである。この世にありとあることで、王さまのすることと異なったことなどあるはずがない。

だから、

古者生子閭史書之。

いにしえは生子あれば閭史これを書す。

むかしむかしは、子どもが生まれるたびに「閭」(集落)の記録人がこれを(閭の記録に)書き込んだのである。

閭者二十五家之謂也。二十五家且有史、而況大於是者乎。

閭とは二十五家の謂いなり。二十五家すら史有り、いわんやこれより大なるものを

「閭」というのは25世帯のことだ。25世帯あれば「記録」があるものなのである。これより大きな州や邑に「記録」が無くてよいことがあろうか。

といいまして、地方史は伝統あるものなのでございます。

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清・金埴「巾箱説巻」より。こういうどうでもいい感じの記録、おもしろいですね。上の記述のどこかに神が宿っているかも。

現在石垣におります。

ところで、今日の新聞には外間守善さんが亡くなったと出てました。もちろん面識も何も無いが、ご冥福をお祈りします。いや、わたしなどが祈らなくても、沖縄戦を生き残って、生きのびていしごとをなされたのである。冥福でないことがありましょうか。

 

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