「神は細部に宿る」と申します。細かいことは大切ですね。
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「市史」とか「村史」あるいは「社史」などというものがたくさんあります。沖縄ではさらに「集落史」も多く編まれているのでありますが、
州邑之有志、自周外史氏始也。
州邑の志有るは、周の外史氏より始まるなり。
州(郡)や邑(県)の歴史書が作られるのは、周代に置かれたという「外史氏」のしごとからはじまっているのである。
地方のことの記録である「外史」をつかさどるのが「外史氏」。これに対して、
若内史氏則紀王之事矣。
内史氏のごときはすなわち王の事を紀するなり。
「内史氏」の方は、周の王さまに関わる事件を記録したのである。
王之事而紀也、在天下者異乎哉。
王の事にして紀するなり、天下の在るものの異なることあらんや。
王さまに関わる事は記録されるのである。この世にありとあることで、王さまのすることと異なったことなどあるはずがない。
だから、
古者生子閭史書之。
いにしえは生子あれば閭史これを書す。
むかしむかしは、子どもが生まれるたびに「閭」(集落)の記録人がこれを(閭の記録に)書き込んだのである。
閭者二十五家之謂也。二十五家且有史、而況大於是者乎。
閭とは二十五家の謂いなり。二十五家すら史有り、いわんやこれより大なるものをや。
「閭」というのは25世帯のことだ。25世帯あれば「記録」があるものなのである。これより大きな州や邑に「記録」が無くてよいことがあろうか。
といいまして、地方史は伝統あるものなのでございます。
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清・金埴「巾箱説巻」より。こういうどうでもいい感じの記録、おもしろいですね。上の記述のどこかに神が宿っているかも。
現在石垣におります。
ところで、今日の新聞には外間守善さんが亡くなったと出てました。もちろん面識も何も無いが、ご冥福をお祈りします。いや、わたしなどが祈らなくても、沖縄戦を生き残って、生きのびてよいしごとをなされたのである。冥福でないことがありましょうか。