平成24年11月21日(水)  目次へ  前回に戻る

 

今日はエライひと相手に、またいろいろ端くれのような知識をしゃべってしまい、恥かしい。アルコールがいけないのです。わしのせいでは無いのじゃ。

あまりに恥かしいので子どもに戻りたいぐらいですが、子どもに戻るのにもそこそこ精神エネルギーが要りましてのう。今日は年寄りのままでやりますじゃよ。

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恥ずかしい話をしましょう。

元の至正十年(1350)の春、大都・北京。巨大な麗正門の屋根の下の「ますがた」(「斗栱」)のところに、人が寝ているのが発見された。

不知何自而至、遠近聚観之門。

いずれより至るかを知らず、遠近聚まりてこれを門に観る。

そんな高いところにどこからどうやって入る込んだものはわからない。おちこちから人々がわいわいと見物に集まってきた。

この問題は警備の武官から順次宰相にまで伝えられ、さらに皇帝陛下のお耳にまで達した。

―――捕らえて、どこから入り込んだのか詰問せよ。

との御意あり。

たちまち一部隊が出て、麗正門を取り囲むと、足場を組み上げて一昼夜かけてついにその人の寝るますがたの高さに達した。その人、呼びかけられるままに大人しく足場に移り、捕縛された。驚くべきことに相当の老人で、地上を歩くのもおぼつかないほどである。

取り調べに対して、薊州の住民である、と答えたが、そのほかのことは

問其姓名、詰其所従来皆惘若無知。唯妄言禍福而已。

その姓名を問い、そのよりて来たるところを詰するも、みな惘若として無知なるがごとし。ただ、妄りに禍福を言うのみ。

その氏名、どうやってあそこに至ったのか、を問い詰めたが、すべてぼんやりとして何も知らないふうであった。ただ、何度も国家と皇帝のこれからの大事を予言するばかりである。

その予言の内容も、宰相や皇帝に知らされたが、朝廷はその内容について「あまりに荒唐で考慮する必要もない」として調書を焼き捨て、関係する者にかたく口止めした上で、老人については、

以不応之罪笞之、忽不知所在。

不応の罪を以てこれを笞うたんとするに、忽ち所在を知らずなりぬ。

取り調べに答えようとしない罪を以てムチ打ちの上釈放(ただしそのまま事故に見せかけて殺してしまおうとしたのである)することに決し、老人を留置場から引き出そうとしたところ、その姿は見えなくなっていた。

その後の歴史が、老人の予言どおりに進展したのか否か。この年、すでに各地に大元帝国への反乱が広がりはじめており、わずか18年後には、順帝の「大都退出」(ペキンからの撤退。これ以降の元朝を「北元」と称する)に至るのであるが、老人の予言内容が不明の今となっては検証することもできない。

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この話、「元史」巻五一(五行志一)に書いてあるんです。「元史」は、最初南京に都した「大明帝国」が、上記のように「北元」と対立する中で、「明がすでに天下を統一し、チュウゴクの新しい統一王朝となった」ということを速やかに証明する必要があって大急ぎで編纂されたものであるので、歴代の正史の中でも最も杜撰と称されるものではあります。が、それでも一応「正史」である。その中にこんな与太話が入っているなんて、恥ずかしいことでございます。

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なお、こんなくだらないお話の最後に書きまして申し訳ありませんが、昨日ご紹介した七絶「南洋諸島」は、大正帝(御諱を嘉仁と申される)の御製である。大正三年(1914)10月、第一次世界大戦の開戦直後、我が帝国軍がドイツ領南洋諸島を占領するの報に接しての作。大正帝は形式ばった詩も善くなさるが、師の三島中洲とは相異し、このように軽いタッチで感懐をお述べになるとき、その才を最もよく発揮なさると感ずる。

 

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