週末だ。でも、ということは、もうすぐ月曜日・・・。
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むかしむかしのことでございます。
宮古山(沖縄県宮古島)に彌間伊嘉利(みまいかり)という男がおったんじゃと(「宮古島旧記」によれば「根間いかり」)。彼は真角与那盤殿(※)の二男であった。
※何と読むのでしょう。・・・マツノヨナハドノと読むんだそうです。(嘉手納宗徳による)
このイカリという人はいいやつで、そしてたいへんな親孝行者だった。彼はおやじに忠実に尽くしたが、
至父病卒、朝夜居父之墓哭慟。
父の病み卒するに至りて、朝夜に父の墓に居りて哭慟せり。
おやじが病気で死んだ後、朝も晩もおやじの墓に来て大声をあげて泣いたのであった。
その孝行の心が天を感じせしめたのであろう、ある晩、夢にその父が「天川崎」にいる、と見て、目が覚めた。
天川崎とは宮古の漲水(はりみず)御嶽(※※)のことである。
※※再来週あたり行って写真撮ってきます。
「なんと、父上がそんなところに居られるとは、のう」
イカリは明朝早くに天川崎に向かった。
しかしそこには父はおらず、
但有頭髪三筋在于水涯。其髪長七八尺許。
ただ頭髪の三筋のみ水涯に在る有り。その髪、長さ七八尺ばかりなり。
ただ、三束の頭髪が泉のほとりに落ちていた。その髪は、七八尺(2メートル以上)の長さである。
「これはこれは」
その髪のつやつやとあまりに美しいので、イカリはこれを手にとってしげしげと見つめていたが、そこへ
忽有一美女。
たちまち一美女あり。
突然、美しいおんなが現れたのであった。
女、言うに、
「わらわは昨夜この地に来たが、そのときカモジ(カツラ)を落としたのじゃ。もしおまえがそのことを知っていたら教えておくれ」
と。
イカリは善良なニンゲンであったから、
「ああ、これでございましょう」
と先ほど拾った三束の髪を差し出した。
女、それを手にすると、イカリににこりとほほ笑み、どぼん、と、
即入海中。
即ち海中に入れり。
すぐさま海の中に飛び込んで、沈んでしまった。
イカリはたいへん驚いたが、それきり何も無いので家に帰った。
さて、翌日、イカリが再び天川崎のあたりを通ると、
亦有美女出現。
また美女の出現する有り。
昨日の美しい女がまた現れたのであった。
女、言うに、
「おまえの親孝行の心は竜宮界にまで聞こえておりますよ。竜王さまが深くおまえを褒めたたえてやりたい、というて、わらわを遣わしておまえを迎えに来させたです。さあ、いらっしゃいな」
「ありがたいことでございます」
イカリは深く拝礼し、どぼん、どぼん、と女のあとについて海の中に入った。
未一刻時到来一処、有金銀宮殿。
いまだ一刻時ならざるに、一処、金銀宮殿の有るに到来す。
しばらく行くと、金銀で飾られた宮殿のあるところに着いた。
イカリはこの宮殿に迎え入れられ、たいへん立派な宴会を以て歓迎された。
宴会の後、竜王の言いて曰く、
「近年は風俗がたいへん乱れ人の心が薄くなり、親族は和睦せず父や兄と親しもうとしない者さえいる。このため、御先祖さまを12年に一回、九月の吉日を択んでうやうやしくお祀りすることを忘れている者が多い。天帝さまはおまえの孝行の心を嘉し、おまえの子孫がつねに繁盛し、五穀の収穫が豊かにあるようにと、御先祖さまを祀る音楽を教えてやるようにとの仰せつけである」
「ははー」
かくしてイカリは「鼓練」の音楽を授かった。
伊嘉利閲乎三日拝謝之。
伊嘉利、三日を閲してこれを拝謝す。
イカリは三日間竜宮にいて、拝礼しておいとまごいをした。
再び美女に伴われて宮古に帰ってきた。
帰来果然経歴三年、恰似夢中初醒。
帰り来たるに果然として三年を経歴し、あたかも夢中より初めて醒むるに似たり。
帰ってきたところ、果たして出かけてから三年経っていた。まるで夢から醒めたような感じであった。
行方不明だったイカリが帰ってきたというので、親族が集まってきて祝いの席を設けてくれた。そこでイカリは親族に諮り、
自此之後、十二年一次九月之間必択吉日、神人五名聚会根所。
これよりの後、十二年一次、九月の間に必ず吉日を択び、神人五名、根所に聚会せん。
今後は十二年に一回、その年の九月のよき日を選んで、必ず一族の神人(かみんちゅ)五人が、先祖の生まれた地である根所(にーどころ)に集まることにしよう。
と決めたのであった。
そのときには、イカリは、白い鷲の尾羽を取り、これを冠に挿し、白い衣を着て西に向かって神謡を歌う。そのまわりには二十四人の神女(のろ)たちが、キジの尾を冠に挿して四方を取り囲み、
伊嘉利毎節打鼓、而答受其曲詞、以致祭祀祖宗之典。
伊嘉利は節ごとに鼓を打ち、しかしてその曲詞を答受し、以て祖宗を祭祀するの典を致す。
イカリは節ごとに鼓を打って調子を整え、コール・アンド・レスポンス方式で歌を歌いあい、こうして御先祖さまをお祀りする祭礼を成し遂げるのである。
この祭りは十三日間行うことにして、その間に広く世の中に、親と祖先に孝行なることが正しい道だと教えるようにしたのである。
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おきなわ・鄭秉哲等編「遺老説伝」より。「球陽」を編纂した鄭秉哲らが宮古島から提出させた「宮古島旧記」に拠って、漢文に改めたものと言う。
本土のみなさん、こんなお話もあるんですよ、ということで引用してみました。
「・・・君はいつもいつもどこかから引用してくるばかりで、自分でものを考えられないのかね。近代以前の脳みそではないのかね」
と言う人がいるかも知れませんが、
随筆の骨法は博く書をさがしてその抄をつくることにあつた。・・・三日も本を読まなければ、なるほど士大夫失格だらう。人相もまた変わらざるをえない。
とは、夷斎・石川淳先生のお言葉である。引用だけで文章を書くのが士大夫である、と石川先生がおっしゃっておられるのである。石川先生一人が味方になってくれるのなら、たとえ朝日千万、岩波百万の信奉者どもが迎え撃とうとも打ちてし止まむ。わしは近代以前の脳みそでケッコーなのでございます。