アタマが無くても生きているひとの類話はたくさんあります。また二例見つけたので書いておく。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
(1) 頭無いけど草履をつくる
宋の時代、刁端礼という役人が厳州府に属するある村を通りかかったときのこと、この村中の世話役を務める潘氏の家に宿泊することになった。
家に案内されて、土間を入ったところで、刁は「あ」と声をあげて立ちすくんでしまった。
異形のモノを見たからである。
一無頭人手織草履、運手快疾。
一無頭人、手に草履を織るに、手を運(めぐ)らすこと快疾なり。
頭の無い人が土間に座って、草履を編んでいたのだ。その手の動きはたいへん素早かった。
「・・・・・・・」
潘家の主人が現れ、言うに、
此吾父也。
これ、吾が父なり、と。
「それはわたしの父親にございます」
「あ、そ、そうでいらっしゃるか・・・」
「かような異形になりましたのは、
宣和庚子、方賊之乱、斬首而死。某訪屍積骸中負帰、手足猶動。
宣和庚子の方賊の乱に首を斬られて死せり。某、屍を積骸中に訪いて負いて帰るに、手足なお動けり。
宣和の庚子の歳(1120)、方臘の乱のときに、父は賊軍に首を斬られて殺されました。わたしはその後、葬儀だけでも出してやろうと、父のしかばねを積み上げられたあまたの死体の中から探し出して、背負って家に持ち帰りました。そのとき、胴体の手足はまだ動いていることに気づいたのです。
首の方も探し出しましたが、こちらは間もなく腐敗してしまいましたので、箱に入れて屋敷の裏に埋めました。
しかし、胴体の方はまだ動いておりますので、葬ってしまうに忍びなく、首の断面に薬を塗り込んで治療しましたところ、なんとか血も止まり、かわりに一つの孔が出来たのでございます。
この孔、
欲飲食則啾啾然。徐灌以粥湯。
飲食を欲すればすなわち啾啾然(しゅうしゅうぜん)たり。おもむろに灌ぐに粥湯を以てす。
飲み物や食べ物が欲しいときには、「しゅう、しゅう」と声をあげます。すると、わたしどもは、(その声で飲食どちらかを聞き分け、)孔から吹きこぼれないように、ゆっくりとお粥かお湯を注いでやるのでございます。」
「宣和庚子年といいますと、今から・・・」
「三十六年前でございます。父は、
年七十余矣。
年七十余りなり。
もう七十をいくつか過ぎた年になりまする」
と、主人が言うと、頭の無いおやじも
啾啾。
「しゅう、しゅう」
と相槌を打った(?)のであった。
(2) 頭無いけど子どもをつくる
唐の開元年間のこと、崔広宗というひと、薊州府令(府知事)として赴任したが、法を犯すことがあって斬首され、その首は市中にさらされた。
家人が胴体の方をもらいうけ、家に持ち帰ったところ、この胴体が
不死。
死せず。
死んでいなかった。
というのである。
胴体は、
毎腹飢画地作飢字。
腹の飢えるごとに、地に画して「飢」字を作(な)す。
ハラが減ると、地面に(指で)「飢えた」と描くのである。
これを見て、
家人屑食頸孔中。飽即書止字。
家人、頸孔中に屑食せしむ。飽きれば即ち「止」字を書く。
家人は(頭が無いので)首に空いている孔(食道か気管支なわけだが)から、おかゆにした食べ物を入れてやるのである。ハラがいっぱいになると、胴体は「止めろ」と書くのだった。
家の中で何か物事が起こると、おもむろに指で指図を書くこともあった。
かくするうちに、
更生一男。
更に一男を生ず。
(頭を無くしてから)さらに男の子が一人出来た。
ある日、地面に
後日当死、宜備凶具。
後日まさに死すべければ、よろしく凶具を備うべし。
そろそろ死ぬようなので、葬式の用意をしておけ。
と書いたが、しばらくしてそのとおりになった、という。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(1)は宋の洪容斎先生「夷堅志」より。先生の文章は相変わらずいい味出します。(2)は唐・闕名氏(著者不明)の「広古今五行記」より。いずれも明・徐応秋の「玉芝堂談薈」巻十一に紹介されていた。
頭無いけど生きている話好きなひと多いですか。多ければほかにも紹介しますよ。