ちょっと飲酒してきたら頭が痛いんですわ。頭がとれてしまう前兆かも知れません。
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今日は日本語をやります。
上杉謙信のことである。
謙信、ある晩、石坂検校なる名人に「平家」を語らせた。検校、哀切きわまりなき声で、数段を語る。謙信は中でも巻四の「鵺」(ぬえ)の段を聞いて、しきりに涙を落としていた。
「鵺」の段というのは、夜な夜な内裏に現れる「鵺」(正確には「鵺のようなもの」)を退治する、源三位頼政の武勇談です。
・・・・・・・・・東三条の森の方より一団の黒雲が立ち来たって、御殿の上にたなびいた。頼政、きっ、と見上げたれば、雲の中に怪しき物の姿あり。
「これを射損じたら、おれはもうこの世界では生きていけまい」
と思いながら、矢を取りつがえて、
南無八幡大菩薩!
と心の内に祈念して、よつ引いてひやう、と射る。
どん、何物かに矢の当たる音がして、何かが落ちてきた。
腹心の遠江の住人・井早太(いのはやた。井氏は後の井伊氏である)、
つつと寄り、落つるところを取つて押さへて、続けざまに九刀ぞ刺(つらぬ)いたりける。
その時、上下、手んでに火を灯(とも)いてこれを御覧(ごろう)じ見たまふに、頭は猿、体は貍、尾は蛇、手足は虎の姿なり。鳴く声鵺にぞ似たりける。恐ろしなんどもおろかなり。
主上、御感のあまりに、師子王といふ御剣を下されけり。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
というお話でございます。
さて、謙信はこの話を聞いて落涙したのである。
近侍の者たちは不思議に思った。
「おやかたさま、ここは頼政の武勇のほまれを上げ、主上にお褒めをいただくアッパレなる段にございます。こころウキウキこそすれ、涙を落とす段にございましょうか」
謙信、それを聞いて、あきれたように言うた。
昔、鳥羽院の御時、禁中に妖怪ありしに、八幡太郎鳴弦して鎮守府将軍源義家と名のりければ、妖、たちまち消えぬといへり。その後、頼政鵺を射たれども猶死せずして、井の早太刺し殺してとどめたりと聞こゆ。義家鳴弦せしは天仁元年の事なり。鵺の出でしは近衛院仁平三年なれば、わずかに四十六年なるに、武徳すでにおとれる事はるかなり。
「それより以前に鳥羽天皇の御代、内裏に妖怪が出たときは、八幡太郎・源義家が、弓の弦を鳴らして
「わしは鎮守府将軍の源義家じゃ」
と名乗りを上げただけで、妖怪はたちまち消えてしまった、ということである。
頼政は、鵺を弓で実際に射て、確かに射ぬいたのだが、それでも鵺は死ななかった。井の早太が駆け寄って、刺殺してとどめをさしたというのである。
義家が弓を鳴らしたのは天仁元年(1108)のことじゃ。鵺が出たのは近衛天皇の仁平三年(1153)じゃ。わずかに(足かけ)46年。この間に、武徳(武のちから)はこんなに衰えてしまった、ということだ。
また今、頼政におくるる事、四百五十年、われまた頼政に劣る事遠かるべければ、おぼえず涙の流るるよ。
現代は、頼政が鵺を射てからさらに450年ぐらい後である(実際には420〜430年)。わしの能力も頼政にはるかに劣る。鵺が出たところでそれを射落とすなどということ、わしには出来ぬであろう。それを考えると、思わず涙が流れ出てしまったのだ。
おまえたちは、そんなふうには思わないのか?」
う〜ん、なるほど。
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「常山紀談」巻一より。これが「いくさ人」(「花の慶次」参照)のモノの考え方なのであろう。
なお、「頭は猿、体は狸、尾は蛇、手足は虎」というこの妖怪の姿を想像してみると、下の図1のようになる。確かに「恐ろしなんどもおろかなり」というぐらい、コワそうである。
←図1