スランプぽくなってまいりました。この更新に、そして生きることに・・・。
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僧・志言は自ら俗人時代の姓は許であったと称していた。東京の景徳寺で落髪し、当時名僧といわれた清璲のもとで受戒したいと申し込んできたのである。
清璲、志言をつらつらと見て、「むうん」と唸ってしまった。
其相貌奇古、直視不瞬。
その相貌奇古にして、直視するに瞬かず。
その容貌は昔風で人と変わっており、何より、彼の目をじっと見つめてみたのだが、いつまで経ってもまばたきをしないのである。
「これは常人にあらず」
として戒を授け、弟子とした。
しかしながら、
動止軒昂、語笑無度。
動止軒昂にして、語笑度無し。
その行動は人の理解を越えており、その言動の変化は他人に予想がつかなかった。
変なひとである。
危険だ。
あるとき、清璲のもとにある檀家が告げて言う、
「あの志言というおとこを、和尚の弟子にしておくのはいかがなものですかな」
「何か仕出かしましたかな?」
「さよう、あのおとこ、
多行市里、褰裳疾趨、挙指画空、佇立良久。時従屠酤游、飲啖無所択。衆以為狂。
市里に多行し、裳を褰(ささ)げて疾趨し、指を挙げて空に画き、佇立やや久し。時に屠酤(とこ)に従いて游び、飲啖するに択ぶところ無し。衆、以て狂うと爲す。
よくよく市場や遊里に行かっしゃる。そこでは、裳裾を引っぱりあげて走りまわっておられたり、指を挙げて空間に何か描きはじめ、しばらく茫然と立っていたりなさる。しばしば肉料理屋・酒屋の類に、ひとのあとについて遊び呆け、飲むもの食らうものお選びもなさらぬ(←僧の禁忌である酒と肉を飲食しているというのである)。みなさまがたは、あのおとこは狂っているのだろう、とおっしゃっておられます。」
「淮南子」に「屠酤之肆」と書いて、「肉・酒を売る店」という使い方があります。
さて、この檀家の言を聞いた清璲は
此異人也。
これ異人なり。
「あいつはすごすぎて、他とは違いますのじゃ」
と答えた。
「なんと」
清璲を信仰すること篤いその檀家、今度は志言のことを敬愛の目で見てみた。
そういう視点でみると、志言のやること、なすことには、すべて価値の転換などの意義があるように思えてきたのである。ついに、
欲為斎施。
斎施を為さんと欲す。
・・・ぜひあのような立派な方に料理をお出しして供養もうしあげたいものじゃ。
と思うようになった。
ところがその途端、志言は「ふ」と姿を消した。
壇家、そのことを聴き、
輙先知。
すなわち先知せるなり。
「和尚さまはわしの行動を予知なさったのじゃなあ」
招待されると予知して、いやがっていなくなってしまったのだ、と思われたのであった。
北宋の仁宗(在位1023〜63)のころのことでございます。
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元・無名氏「神僧伝」巻九より。
関係無いのですが、本日、谷川健一「地名逍遥」を読了す。600ページもあるので「こんな本読み終わるはずないぞ」と思っていたが、あちこちに余白が多い本だったのでなんとか終われました。日本文化の多様性を強調せんとするためか、南島、朝鮮、熊襲(隼人)、アイヌの語源を多く採用なさる傾向あり。若いのが全部正しいと信じちゃったりしたらどうするのさ。