これはわしが実際にこの目で見たことじゃが・・・
というてはじまるのが、アメリカン・トールトーク(19世紀の法螺話)の常套だそうでございます。そうして、トールトーカーたちは、グランドキャニオンを掘った巨人の木こりポール・バニヤンや素手で溶鉱炉の鉄を掬って、五本の指の間を通して四本のレールを作ったという偉大なる労働者ジョニー・マガラックなどのことを、得々と語り出すのだ。
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神怪之事吾素不信、但即今数事乃吾目撃而身親者、殊未有以自解。
神怪の事、吾もとより信ぜず、ただ即今数事のすなわち吾が目撃して身親(みずか)らするものにして、ことにいまだ以て自解せざるあり。
神秘的なことだとか怪談だとかは、わしはもとより信じてはおらぬ。ただ、今までにいくつか、わしが実際にこの目で見たことで、どうにも不思議でならないことがいくつかあるのである。
まずはとりあえず一つめ。
我が郷里・南豊県の石遷道観の前にはクスノキの巨木があった。伝えによれば、宋の咸平年間(998〜1003)には、この木はもう三人で手をつながないと周囲を取り巻けないほどの大きさであったのだそうじゃ。
咸平辛丑の歳(1001)、冷という姓の道者がどこからともなくやってきた。そして、この木のもとで修練を続けていたが、
一日叱木使開。
一日、木を叱して開かしむ。
ある日、この木に、内部を見せるように命じたのであった。
ぎぎぎぎ・・・。
樹皮と木の幹がおのずから裂け、人ひとりがもぐりこめそうなぐらいの割れ目ができた。
木腹中虚、因入其中坐化而逝。未久生合。
木の腹中虚なれば、因りてその中に入り、坐化して逝けり。いまだ久しからずして生にして合す。
木の芯のところが洞になっていたので、道者は「ではでは」とまわりの人にあいさつをすると、その中にもぐりこみ、そこに座ったまま息を引き取ってしまった。その後しばらくして、冷道士の亡骸を入れたまま、木はまたおのずから割れ目を閉じてしまったのである。
―――なんと不思議なことであろう。しかし残念ながら、この事件自体は筆者がこの目で見たのではなかった。
県民たちはこのクスノキを崇めていたが、約60年ほど経った治平丙午の歳(1066)のことである。
いつの時代にもへその曲がったやつはいるもので、
「この木の中に道士がいるだと? おれはこの目で見るまでは信じないね」
とうそぶいた令胡若という者が、斧を以て木の内部を見てみようとしたのである。
懼れる人民どもを後目に、令は自ら斧を揮って、がつ。一回。がつ。二回。がつ。三回、・・・・何度目かに、斧は突然「ばりん」という乾いた音を立てた。
木中の洞に到達したのだ。
「やや、本当に木の中に割れ目が・・・」
「これぐらいの木になれば芯のところが洞になっていて当然じゃ。それ、行くぞ」
ばりん。
ばりん。
洞の中に光が射しこみ、中がおぼろげながら見えだした。
「どれどれ、中には何もあるはずが・・・」
と覗き込んだ令胡若、突然、
ぎゃ!
と叫んで身をのけぞらせた。
「ど、どうした」
「お、おられたわー!」
なんと。
見物の人民たちが恐る恐る覗き込むと、
見道者兀然而坐。厳然如生。
道者の兀然として坐するを見る。厳然として生けるが如し。
道士すがたの人の屍が、石のように座っているのが見えた。まるでその屍は、生きているかのようであった。
ここに至って、回心した令胡若を中心にしてひとびとはこのクスノキのまわりを飾り、聖なる場として清浄に保つことにした。
―――なんと不思議なことであろう。しかし残念ながら、このときのことも筆者がこの目で見たのではなかった。
以来、また200年ほどが経過した。
―――やっと筆者の時代になりました。
わしが子どものころにもまだこのクスノキは立っており、
予親見所斧木竅。長盈尺闊数寸。中虚而枝葉茂、冷道者兀坐猶故也。
予、親しく斧するところの木の竅を見る。長さ尺に盈ち、闊(ひろ)さ数寸なり。中は虚にして枝葉茂り、冷道者兀坐することなお故(もと)のごとし。
わしはみずから、斧で傷つけたという木の穴を見たものじゃ。傷は長さ一尺あまり、幅は数寸で、穴の中は洞になっておって洞の中にも枝や葉が茂っていたが、そこから冷道者の座ったままの屍をむかしのままに見ることができた。
子ども心にも不思議を覚えたものであった。
南宋の末、宝祐癸丑の歳(1253)、寒食(旧暦の三月下旬)の翌日だったと記憶するが、今までに無く大いに暴風の吹いた日があった。
大風抜木、木雖仆、而冷道者猶兀坐木根之上、屹無所傷。屋而覆之至今猶存。
大風木を抜き、木は仆(たお)るといえども、冷道者なお木根の上に兀坐し、屹として傷むところ無し。屋してこれを覆い、今に至るも猶存す。
暴風はクスノキの木を吹き倒してしまった。しかし、木は倒れたのだが、冷道者の屍は、そのまま木の根っこの上にお座りになったままであった。あれだけの風に吹かれたというのに、すっくと背筋を延ばし、どこにも傷一つ無かったのである。そこで県民は小屋を建てて道者をお守りすることとし、そのまま今まで残っているのである。
これはわしが実際にこの目で見たことじゃ。
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元・劉壎「隠居通議」巻三十より。
劉壎(りゅうけん)は字を起潜といい、南豊のひと、自らいうに三十六歳の年に南宋が亡びた(1275。上の大風の年は14歳ぐらいかな)。その心には宋への忠誠もあったようであるが、やがて元に仕えて微官を得、七十いくつの年までその禄を食んでいたという。晩年退官し、理学から詩文、歴史・科学、鬼神のことに至るまでの厖大な論文集「隠居通議」を遺した。
それにしても上記の冷道者のこと、ほんとうに不思議なことである。どんなに不思議を信じない人でも人生に三度は不思議なことを体験するらしいが・・・・・。
「そうなのじゃ」
と劉隠居は言いだしました。
此不可解一也。
これ、不可解の一なり。
これはまだまだ不思議なことの一つ目である。
まだほかにも不思議な経験があるのだそうでございます。しかし我ら生者は明日はまだ会社ですのでいつまでも御隠居のお話を聞いていられません。続きはまたいずれの日にか。