もう台風17号の影響が出ているらしく、風がひゅうひゅうとうるさいです。こんな日はスカッとした話を聞いてスカッと眠りたいものですね。
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五代・後晋の天福七年といいますと、西暦紀元942年に当たります。このとき、福建には「閩」という國があり(いわゆる十国の一である。909〜945)、この国では五代目の閩帝・王㬢の永隆四年と号しておりました。
閩帝は「荒淫にして度無し」(酒色のことで踏み外してやりすぎ、見境がなかった)と評される。
ある晩の宴会で酔っぱらい、宰相の李光準が飲めというのに飲まなかった、というて怒り、
命執送都市斬之。
命じて、都市に執送してこれを斬らしめんとす。
市中に引き出して斬罪に処するように命じた。
命じられた刑部の下級官吏は、市中に引き出さずにそのまま宮中の獄に繋いでおいた。
翌朝、帝は朝廷を見回して李光準がいないのに気づいた。
「宰相はどうしたのかな」
と左右に問うが、廷臣どもはみな顏を見合すばかりで答えない。
そうこうしているところに、刑部から、「前の宰相・李光準を斬罪に処してよろしいか」決裁案が回報されてきた。
帝、大いに憤慨し、
「誰がそんなことを命じたのだ」
と決裁案を破り捨てて、
召復其位。
召してその位に復す。
呼び出して、すぐに宰相に復位せしめた。
のであった。
是夕又宴。
この夕べ、また宴す。
この晩、また宴会した。
そして、今度は、翰林学士として詔勅の起草を掌る周維岳が怒りに触れ、獄に下された。
吏拂榻待之、曰相公昨夜宿此。
吏、榻を拂いてこれを待ち、曰く、「相公昨夜ここに宿れり」と。
刑部の吏は周維岳を案内して、ベッドをよく拭き、「昨夜はここに宰相を御泊め申し上げました」と言った。
そうである。
もちろん周維岳は翌日には翰林学士として出勤し、特段の咎めも無かった。
さて、しばらくしてからの宴会では、多くの臣下が酔っぱらって倒れてしまい、重臣の中ではわずかにこの周維岳だけが何とか酒を飲み続けていた。
帝、曰く、
維岳身甚小、何飲酒之多。
維岳、身はなはだ小なるに、何ぞ飲酒の多き。
「維岳は、からだはちんちくりんのくせに、よう飲むのう。どういうことじゃ? どういうことじゃ?」
からんだのである。
近侍の者が、要らぬことを言うてしまった。
酒有別腸、不必長大。
酒に別腸あり、必ずしも長大ならず。
「酒にはそれを吸収する別のはらわたがあると申します。体がちんちくりんにあられましても、そこに入っていくのですから関係ないのでございましょう」
「うひょひょ〜」
帝は
欣然。
欣然たり。
およろこびになられた。
そして、突然、維岳を庭に突き落とすと、
「誰か刀を持って来い、持って来い」
と呼ばわった。
宮門を護衛していた兵士たちが何ごとかと駈けつけてくると、命じて言う。
「こやつの腹を切り裂けい。
欲剖視其酒腸。
剖(さ)きてその酒腸を視んとす。
腹を切り裂いて、こやつの体の中に酒用のはらわたがどういうふうに入っておるのか、見たいのじゃ」
「お、お待ちくだされ、陛下」
近侍の者どもは
殺維岳無人侍陛下劇飲者。
維岳を殺さば、人の陛下の劇飲に侍する者無からん。
「維岳さまを殺してしまわれたら、陛下のはげしい飲みについていける人はもうおりませぬぞ!」
と押とどめたので、維岳は翌朝まで庭先に放っておかれたものの、なんとか一命を取り止めたのである。
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「資治通鑑」巻273「後晋紀4」より。
みなさんスカッとしましたでしょう、何しろみなさんは憲法上の主権者さま。封建専制の閩帝と同じ立場です。臣下を「殺せ」と命じたり、「殺せ」と命じておいて「誰が命じた」と怒鳴ってみたり、好き放題できるお立場なのです。閩帝が酒に酔っていたように、メディアの報道に酔って・・・。
なお、この「酒に別腸あり」というのは、「甘いモノは別腹だから・・・」の「別腹」という言い回しの語源なのでございます。テイク・ノート。
・・・ちなみに周維岳は助かりましたが、南朝宋の末期には、遊撃将軍の孫超という人が皇帝(後廃帝・劉c。在位473〜477)に謁見したとき、
有蒜気。
蒜の気あり。
ニンニクの臭いがした。
というので、帝が
「どこに入っているのか調べよう」
と命じ、自ら
剖腹視之。
腹を剖きてこれを視る。
孫超の腹を裂いて、中を見た。
そうでございます。(「南史」巻三「廃帝紀」)。