本日も無為に過ごした。
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また老童子が来まちたのでお話します。
「老童子ちゃんはすごいいろんなこと知っている、とオトナが言ってまちたよ。 だから老童子ちゃんの言うことは難しいことだらけなのかな?」
老童子は、ぶるんぶるんと頭を左右に振り、
―――そんなこと無い〜。
と否定しまして、言いました。
吾言甚易知、甚易行、天下莫能知、莫能行。
吾が言ははなはだ知りやすく、はなはだ行いやすきも、天下よく知るなく、よく行うなし。
―――おいらの言っていることはとても簡単で、とても実行しやすいことばかりでちゅよ。しかし、この世の中にそのことを知ってくれる人は無く、だから実行できる人はいない。
言有宗、事有君。夫唯无知、是以不我知。
言うに宗あり、事(つか)うるに君あり。それただ知る無し、ここを以て我を知らざるなり。
―――「ことばを発する」には言いたいことが無ければならない。主君がいないと「お仕えする」ということができないように。・・・と言いまちゅる。言いたいことがあることは「ことばを発する」ことの必要条件で、主君がいることは「お仕えする」ことの必要条件なわけ。
そして、世の中のひとは本当に知っていなければならないことは何も知らないの。本当に知っていなければならないこと、というのは、すなわち、おいらの言うことと同じことなので、本当に知っていなければならないことを知ることが、おいらのことを知る必要条件になるんでちゅ。必要条件を満たしていないから、みんなおいらのこと何も知らないの。
知我者希、則我者貴。
我を知る者は希(まれ)にして、我に則る者は貴し。
―――というわけで、おいらのことを知ってくれてる人は少ない。おいらのマネをしてくれれば立派になれるのに・・・。ぐしゅ、ぐしゅ、び、びええ・・・。
老童子ちゃんはまた涙ぐみはじめました。
「ほんとうでちゅよね。でも、老童子ちゃんはビジュアル系でも無いし、マスメディアに乗せられるタイプでもないから、知るひとは少ないでちょう」
と慰めて撫で撫でしてあげまちゅと、老童子ちゃんは気をとりなおし、
―――おいらはこのように聞いておりまちゅよ。
聖人被褐懐玉。
聖人は褐を被(き)て、玉を懐く。
聖なるお方はいつもみすぼらしいぼろ服を着て、しかし胸には宝玉を抱いているのだ。
と。おいらの外見がみすぼらしいのは聖人であることの必要条件なの。
と、言いまして、
「うほほほ」
と不敵に笑ったのでちた。
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「老子」第七十章より。
ちなみに、
○聖人は褐を被て、玉を懐く。
という美しい言葉について、孔子はこんなふうに言っています。(「孔子家語」三恕篇)
子路問於孔子曰、有人於此、被褐而懐玉。如何。
子路、孔子に問うて曰く、「此こに人ありて、褐を被(き)て玉を懐く。如何ぞ」と。
弟子の子路が孔子に質問しましたのじゃ。
「先生、ここにある人がおります。このひと、みすぼらしいかっこうをしているが、ふところには宝玉を抱いている。こういう人はどうでしょうか」
おのれの才能を包み隠すことの是非を問うたのである。
孔子、答えて曰く、
国無道、隠之可也。国有道、則裒冕而執玉。
国に道無ければこれを隠すも可なり。国に道有れば、すなわち裒冕(ほうべん)して玉を執るべし。
その国の政治に筋道が無い状況なら、玉を胸の中に隠していてもしかたあるまい。しかし、その国の政治に筋道があるのなら、そのひとは(自分の才能を隠していてはならず、)冠をかぶり正装をして、玉をぶらさげて政務を執りおこなうべきであろう。
と。
孔子と老子の考え方の違いがわかりますよね・・・・、なんてね。ほんとにこんな会話が原始孔子教団で為されていた、と信じる必要は無く、どうせ「老子」七十章の文章を前提にして、「老子」の考えを儒家的に否定・止揚するためにデッチアゲたエピソード(要するに「寓言」)でしょうけど、人の努力によってより良い社会を築きあげていこう、というこの孔子の考え方は、かっこいいですよね。おいらたちはそういう義務感も昂揚感も失って、こんな「童子」になってしまっていますので、今となっては鬱陶しささえ感じてしまいますが・・・。