平成24年9月13日(木)  目次へ  前回に戻る

 

なんにもしないよん。毎日が日曜日。

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今日は老童子ちゃんも来ませんでした。

ふわ〜、たいくちゅう。

季節は違うのですが、

終日昏昏酔夢間、  終日昏昏たり、酔夢の間、

忽聞春盡強登山。  たちまち春盡くると聞きて強(し)いて山に登りぬ。

 一日中、ごろんごろんしておりました。ほろ酔いしてたり、うとうと眠っていたりして。

 ところが、突然のように「もう春も終わりだ」という声を聞いて、「これはいかん」と起き上がって山に登ってきた。

みたいな、ごろごろ生活。

山に登るとお寺があって、

因過竹院逢僧話、  竹院を過(よ)ぎり僧に逢いて話すに因り、

又得浮生半日閑。  又得たり浮生半日の閑。

 竹に囲まれたお寺に寄って、坊主としばらく話をした。

 おかげで今日もまた半日は非生産的な時間を過ごしてしまったのじゃ。

わっはっはー。

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これは唐・李渉「題鶴林寺」「三体詩」巻一所収)。鶴林寺(潤州にあり、正式には黄鶴山竹林寺と謂う)の壁に書きつけてきた詩、ということです。本当に李渉がこんなにヒマだったか、というと疑問もあります(当時の役人は意外と忙しい)が、当時のお寺というのは、最新の生産技術を集約・伝搬する場であるとともに、文化芸術やその成果である図書・絵画などを維持・講義する機関でもありましたので、仏教寺院と知識人との関係はたいへん強いものであったのです。

一方、おいらは現代の無縁化したニンゲンなので、個人として檀那寺というものを持たない。(ご先祖の墓は実家の近くにあるが)

なので、お話してくれる和尚さんがおらず、つねに童子形をとって、白雲や流水と語り合っているわけ。一人でぶつぶつ言っている初老の変なひと、ではないのでご注意くだちゃいね。

 

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