平成24年9月14日(金)  目次へ  前回に戻る

 

本日は神社に行って尖閣守護を祈りましたが、果たしてどうなることやら・・・。

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以下、あるひとの述懐です。

・・・幼年のころ、このあたりでは儒学がたいへん流行しまして、わたくしなども師匠をとり、母に命ぜられて「大学」の素読を習いました。「大学」にはまず三か条がござって、

明明徳  「明徳を明らかに

親民   「民に親しむ」(又は「民を新たに」)

止至善  「至善に止まる」

の三つをまず教える。

ところが、わたくしにはこの「明徳」というものがどういうものか、すっきりしない。疑問である。長い間そのことに悩みまして、

あるとき儒者衆に問いましたは、この明徳といふ物は、いかやうな、どのやうなが明徳ぞといふて、問ましてござれば、どの儒者もしりませひで

そのとき、

ある儒者のひまするは、

「其やうなむつかしき事は、よく禅僧が知て居るじや程に、禅僧に行きてお問いやれ。我らは我家の書で、日夜朝暮、口では文字の道理を説てよくいへども、実に我らは明徳といふものは、どのやうなが明徳といふ物やら、しりませぬ」

といひまして、埒が明きませなんだゆへに、さらばと存じたれども、此の許に禅宗は其比(そのころ)ござらずして、問ふやうもなくて・・・・

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いい加減ですねー。これで済むなら、わしも儒家やって食っていこうかな。

考えたら儒家やらなくてもこのような素直さがあればどこででもやっていけるであろう。毎日が日曜日となってしまったわたくしには大変勉強になることでござる。

なお、この文章は、江戸時代前期の正眼国師・盤珪永琢(ようたく)(1622〜1693)の講義の記録である「盤珪仏智弘済禅師御示聞書」上より(岩波文庫「盤珪禅師語録」所収の第二十二条)引用した。文中に「このあたり」と言っているのは、元和のころの西播磨・浜田村であるわいの。儒者衆がいい加減だったおかげで「不生禅」を唱えた名僧が生まれたわけじやによつて、これは手柄というべきものじやて

 

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