頭痛がきつかったのじゃ。今はバファさまが効いたみたいで楽チン。
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今日、道を歩いていたら、ためになる話を聞いたので、忘れる前に伝えておきます。
道光癸未(三年(1823))年に殿試第二の好成績で進士に及第した王広蔭先生はそのときすでに四十六歳であった。合格席次の高い者が選任される翰林編修官に就いたが、そのまま十六年からそこに据え置かれ、それ以降は次々と累進して最後は工部尚書(閣僚クラス)にまで昇任し、在官中に亡くなった。
王先生は南通州の人である。南通州は北京から遠くは離れていないが、御存じのように
土音鉤輈、頗不易暁。
土音鉤輈(こうちゅう)にしてすこぶる暁(さと)りやすからず。
その地の方言はぴいちくとして、たいへんわかりづらい。
「鉤輈」(こうちゅう)はそのまま読めば「釣り針(フック船長の義手のようなやつ)」と「車の長柄」ということになりますが、実は「鉤輈挌磔」(こうちゅうかくたく)と続けると、鷓鴣(シャコ)鳥の鳴き声とされます。「唐本草」に曰く、
鷓鴣生江南、形似母鷄、鳴云鉤輈挌磔。
鷓鴣は江南に生じ、形は母鷄に似、鳴きて云う、「鉤輈挌磔」と。
シャコ鳥は江南地方に棲息する。姿は雌鶏に似ている。「こうちゅうかくたく」と鳴く。
要するに「鉤輈」(こうちゅう)は、キジなりニワトリ系の鳥の鳴き声を写したもの。
初め編修官となったとき、非常に成績優秀で年齢も長じた人格者だというので、道光皇帝は特に王先生を召して会見を賜った。
ところが、風采は立派なのだが、話させてみると、
奏対語難弁。
奏対の語、弁じ難し。
お答えしようとして申し上げる言葉が、あまりにもわかりづらいのである。
「う〜ん」
道光帝は、
頗不喜。
すこぶる喜ばず。
たいへん不愉快に思われた。
「ちょっとあれではねえ・・・」
ということを枢密官や大臣たちに漏らしていたので、王先生はそのまま編修官に十六年も留めおかれたのである。
さて。
その後、道光二十五年(1845)のこと。
王先生はこの六年前にようやく別の部局に遷され、この年にはその学殖を買われて詔勅の原稿を書く内閣学士に選ばれた。
内閣学士に任命されて、王先生は久方ぶりに皇帝から謁見を賜ったのである。
王はもう七十歳近い老人になっていた。
謁見は型通りに終わった。
謁見が終わった後、これももう壮年を通り越した年齢になっていた道光帝は、すぐに宰相を呼び寄せた。
「王広蔭のことであるが・・・」
「は?」
「今日、彼を謁見した。
王広蔭、官京職廿余年、尚不改其方音。
王広蔭、京職に官たること廿余年、なおその方音を改めず。
王広蔭は、北京勤めばかりでもう二十何年になるはずである。ところが、あやつめ、あのきつい方言が何一つ変わっておらなんだ」
宰相は緊張した。帝は、いまだにそのことを不快に思っておられたのか。
帝は続けた。
可知其忠厚不忘本也。
その忠厚にして本を忘れざるを知るべきなり。
「それによって、自分の根っこをいつまでも忘れようとしない、あやつの忠節にして篤実な人柄がわかるではないか」
「は?」
「わからぬか。・・・以後、あやつを重く用いたい」
「は。ははー」
王先生はそれより一年も経たずに工部侍郎となり、地方総督となり、数年後には工部尚書に累進したのである。
ああ。
竹因冬暖回残潤、 竹は冬の暖かきによりかえって残潤あり、
菊為遅開得久看。 菊は遅く開くがために得て久しく看らるるあり。
竹は、冬が暖かいと、あちこちに湿り気が残ってまだら模様ができてしまうが、
菊は、遅く花開いたときには、冬にも長く凋んでしまわないものだ。
というではないか。花の咲くことの遅い早いには、天の定めた命があるのであろう。
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だそうでちゅよ。周寿昌「思益堂日札」巻九より。
おエライひとたちは年取ってからも重い責任のシゴトに抜擢されちゃって、たいへんでちゅねー。ちなみにアヘン戦争が道光二十年(1840)なので、そのころのことです。
そういえば明日は関西弁のひとに会うんですわ。あのひとがいつまでも関西弁なのも忠厚にしてその本を忘れず、だからなのかな。