症状つらいです。ああ、心から笑うことのできる日はいつ来るのか。
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二人の士(さむれー。琉球士族)と一人の僧が蓑をかぶったこのわしの家に来ましたのじゃ。わしを訪ねてきたのではない、
見茅盧前有梅一株、花盛如雪。
茅盧の前に梅一株ありて、花盛んなること雪の如きを見る。
わが茅葺のあばら家の前には一本の梅の木がござって、この梅が今をさかり、まるで雪のように白い花をいっぱいにつけておるのを、この方々は目にしたのじゃ。
二人のさむれーは「美しいのう」「美しいのう」と言い合い、僧もまた頷いている。
そこでわしは訊いてみた。
「のうのう、だんながた、
真美何在。
真美いずくに在りや。
どこに美しさの本源があるのでしょうなあ」
「ふむ。そうじゃのう・・・」
「そういわれればどうですかなあ」
(―――よし、引っかかった。ちょっと学問なり風雅のココロがあると思っているやつはこんな感じですぐ引っかかるのじゃ・・・)
一人めのさむれーは答えた。
在花。
「花にあり」
「花そのものに美しさの本源が備わっているおるのではないかな。
だから、誰が見ても、おそらくは鳥や蝶が見ても美しいと感じるにちがいない」。
二人めのさむれーは答えた。
在眼。
「眼にあり」
「受容器官である目が「美しい」と感知するんですよ。
複眼の蝶がわれわれと同じ美意識を持っているとは思えません。鳥の目には美しいと映るから、ほけきょと鳴いているんでしょうけど」
僧侶は答えた。
在心。
「心に在り」
「意識がこれを「美」と認識するのですじゃ。
美しさのイデアがわれらの意識の方に用意されていて、それに合致するものが美なのです。
だから、ニンゲンならだれが見ても、・・・たとえばこのじじい殿でも、美しいと感じるのですじゃ」
むむむ! みなそれぞれによく考えて答えている。わしにはこれ以上の答えはできそうにもない。・・・じゃが、わしは蓑かぶりのじじいである。一筋縄でいくわけにはいかない。
わしは言うてやった。
「いやー、すばらしい、さすがに学のある方々じゃ、よう考えておられまするなあ。・・・しかし、じゃ。
士也近拙、僧也近巧、皆非真美。
士や拙に近く、僧や巧に近くして、みな真美にあらず。
さむれーお二人のお答えは純朴に過ぎましょうし、お坊様のお答えはひねり過ぎておられましょう。どの答えも美の本源を言い当ててはおりますまい」
三人、何となくイヤそうな顏をした。
僧が三人を代表するように言った、
敢問、真美何在。
敢えて問う、真美いずくに在りや。
「ではお聴きするが、御老人自身は、美の本源はどこにある、とお考えなのかな」
「む」
わしは答えた。
「うっほっほ、
偽在于已言之後、誠在于未言之前。
偽りは已に言うの後にあり、誠はいまだ言わざるの前にあり。
コトバにしたときにはもう人の手が加わったいつわりごと、コトバにする前にしかまことのことはございませぬよ」
三人はかなりイヤそうな顏をした。
(―――よし、困らせてやったぞ!)
「うっほっほ、わっはっは、ひいっひっひっひ」
わしは心から大笑いしたのであった。
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蔡温(具志頭親方文若)「蓑翁片言」より。
このじじい、ほんとに嫌われてきましたよ。そのうち気の荒いさつまんちゅあたりにパンチ食らうんでは?。