平成24年8月30日(木)  目次へ  前回に戻る          

 

辛いです。ばれてきた。たかが仕事のことなのだが・・・。昨日はあまりにも精神的に辛くて更新できず。うっちゅっちゅー。

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さて、「どうしても知りたい」「荘子ちゃんの言ったことおちえてくだちゃい」という読者ちゃんたちの強いリクエストがありましたので、今日は前回の続き。

紀元前の戦国の時代のことでございますよ。

荘子が言いますには、

「そうだ、思うに「中間」というのはそれはそれでもう固定されてしまっていることになってしまう。

若夫乗道徳而浮遊則不然。

かの道徳に乗じて浮遊するがごときは然らず。

あの「道」と「徳」(「何事にも当てはまるやり方」と「やろうとする心的エネルギー」)に乗っかって、一定の基準や方法に縛られることが無いように振る舞うなら、そんなことは無いであろう。

無誉無訾、一龍一蛇、与時倶化、而無肯専為。一上一下、以和為量、浮遊乎万物之祖。物物而不物于物、則胡可得而累邪。

誉(ほま)れも無く訾(そし)りも無く、一は龍にして一は蛇、時とともに化し、あえて専為する無く、一は上り一は下り、和を以て量と為し、万物の祖に浮遊す。物を物とし、物に物とせられず、すなわちなんぞ得て累さるべけんや。

称賛されもせず批判されもせず、あるときは龍のように天上を飛び、あるときはヘビのように地べたを這う。その時その時で変化して、一つのことにこだわることなく、あるときは昇りあるときは降り、何かとぶつかりあうことがないようにしながら、すべての事象を生み出すアレ(←虚無の空間のことだ、と識者は言うが・・・)の中でふわふわと何ごとにも縛られぬように振る舞うこと。そうすれば、自分以外の他者を操るばかりで、他者に操られることはない。そのようになれば、どうして他者に寿命を全うすることを邪魔されたりすることがあろうか。

これは、古代の聖人であった神農さまや黄帝さまのやり方でもあったのだ」

「お。突然にいにしえの聖人らの名前を出しまちたね」

「ほんとうのことは思い出すのに時間がかかるからね。

普通のひとびとの考えはいにしえの聖人の教えとはかけ離れてしまった。彼らは合するかと思えば離れ、完成するかと思えば壊し、一心にやっているかと思えば止めてしまい、信奉しているかと思えば謗りはじめ、役に立つというのは汚してしまうということだし、賢いということは人を出し抜くということだし、ひどいやつだというのは自分を欺いたひとのことをいうばかりだ。

胡可得而必乎哉。悲夫。

なんぞ得て必するべけんや。悲しいかな。

どうして何か為さんとして成し遂げられることがあろうか。かなしいことではないか」

「ほんとでちゅよね」

「童子よ、おまえも、いにしえの聖人たちのこの教えを忘れないようにするがいいよ。

其唯道徳之郷乎。

それただ、道徳の郷か。

この教えこそ、「道」と「徳」、すなわち霊妙なる「方法」と「心的エネルギー」の流れ出でるみなもとなのだから」

童子はにっこり微笑みまして、大空に響き渡るかのように大きな声でお答えしました。

唯。

「あいでちゅー!」

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ちゃんちゃん。以上、「荘子」山木篇からでちたー。

どうでもいいようなお話ですが、この中に「不材を以てその天年を終う」「鳴くあたわざるを殺す」「一龍一蛇、時とともに化す」「万物の祖に浮遊す」「道徳の郷」など、有名な言葉がたくさん入っておりまちたよ。一つ二つは覚えて朝礼の時に使いまちょー。

ところで、

「キジ(A)も鳴かずば撃たれまい」

と申しますが、昨日の「雁」(B)は、よく鳴くやつは助かって鳴かないやつは殺された。(A)と(B)の違いをとくとく考えるに、現在野にあるか既に捕らわれているかの違いではないか。そうか、なるほど、誰かに飼われているから無理しなければならないんだ。だんだんわかってきましたよー。

 

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