また月曜日来たよー。
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昨日の続きです。
「投筆」につきまして。
後漢書・班超伝にいう、班超、字は仲升、扶風(長安の西の地方)平陵の人である。明帝の永平五年(62)、後に「漢書」の編者として名を成す兄の班固が校書郎に採用され都・洛陽に赴いたときに、母とともに同行した。
彼は学問もあり、弁舌もできたが、家が貧であったため、常に官庁の書筆のために雇われてわずかな俸禄を得ていた。
嘗輟業投筆、歎曰、大丈夫無他志略、猶当傚傅介子張騫、立功異域、以取封侯。安能久事筆研間乎。
かつて業を輟め筆を投じ、歎じて曰く、「大丈夫、他の志略無くんば、なおまさに傅介子(ふかいし)・張騫に傚いて功を異域に立て、以て封侯を取るべし。いずくんぞよく久しく筆研の間を事とせん」と。
あるとき、しごとを止め、筆を放り出して、溜息ついて言うことには、
「立派なおとこに、他の夢が無いなら、傅介子や張騫さまのように西域で大手柄を立てて侯爵に封じられるべきであろう。どうしていつまでも長く、筆と硯の間のシゴトにしたがい続けることがあろうか」
と。
傅介子は前漢・元帝のときのひとで、楼蘭王を刺殺してその地を掌握し、義陽侯に封じられたひと。張騫は武帝のとき長く西域に使いし、ついに博望侯に封じられたひとである。
同僚たちは笑ったが、超は
小子安知壮士志哉。
小子、いずくんぞ壮士の志を知らんや。
「がきどもにどうしておのこの志が理解できようか」
と言ったのであった。
・・・しかし、こんなでかい態度を取っておいて、すぐに西域に行ったわけではありません。
その後、街中で人相見に
生燕頷虎頸、飛而食肉、此万里侯相也。
生は燕頷・虎頸、飛びて肉を食らわん、これ万里侯の相なり。
「おまえさんは、ツバメのかたちのアゴをし、クビの形はトラのようである。すばやく飛んで肉を食らうすがたで、これは万里を支配する侯爵になれる人相じゃぞ」
と言われたりしました。
・・・が、それでもまだ都にいて筆写のしごとをしておりました。
永平十六年になって、知り合いの起こした事件に連座して免官になったとき、西域の軍務を志願するなら新しい職に就けると言われて、ようやく西域に使いすることにしたのである。
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壮士が志を実行に移すには、時間がかかるものなのですなあ。わしもそろそろだが。(班超についてはこちらも参照ください→「平平無奇」)
唐・魏徴の「述懐」の第二句、
投筆事戎軒。 筆を投じて戎軒(じゅうけん)を事とす。
の「投筆」というのは、この班超の故事に拠っております。(実際には上に見たとおり「投筆」してすぐに西域に行ったわけではないのですが。)
「戎軒」とは何ぞや。
「戎」は「礼記・月令」に
五戎、弓、殳、矛、戈、戟也。
五戎とは、弓、殳、矛、戈、戟なり。
「五つの武器」というものがある。弓と、殳(しゅ)、矛(ぼう)、戈(か)、戟(げき)のことである。
「殳」(しゅ)とは、長い「杖ほこ」で刃の無い、刺突用のもの(「やり」)。「矛」(ぼう)は諸刃の剣を杖ほこの先につけたもの。「戈」(か)は、諸刃の剣の片側に枝の出ているものを先につけたもの。「戟」(げき)は両側に枝の出た剣を先につけたもの。
とあるように、「武器」のこと。
「軒」は、今では「軒先」とか「来々軒」のように建物を指しておりますが、もともとは「車」(くるま)の一種。「干」は矢を防ぐための「たて」の象形文字です。「軒」(けん)とは矢を防ぐための盾を載せた「車」であり、「戎軒」は「戦車」のことです。
「戎軒を事とす」とは、「戦車のことをシゴトにする」=用兵家になる、ということである。
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魏徴はこれに続けて、
縦横計不就、 縦横の計は就(な)らざるも、
慷慨志猶存。 慷慨の志はなお存す。
と言っております。
これも何かの故事を踏まえているらしいぞ。以下、続く。