また月曜日来るよー。
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今週の前半は唐・魏鄭公の五言詩「述懐」(懐(おも)を述ぶ)を讀んで、権力の高みを目指したひとたちのことを偲ぶことにします。
ちなみに魏鄭公は、「貞観政要」で太宗皇帝と議論している魏徴さんのことです。有名なひとだからみなさんもスキでしょう。みなさんは有名人スキだから。字を玄成といい、鉅鹿(きょろく)の人。はじめ道士となったが隋末の内乱の際に河南を根拠として有力であった李密のもとに参じ、やがて密に進めてともに唐に降伏した。唐高祖の武徳元年(618)、李密が叛を図って殺されたとき、彼の部下で、後に唐を支える名将となる徐世勣(じょせいせき)がその残党を率いて唐に服さなかったので、それを説得に行く際に作ったのがこの詩であるという。
この詩、「唐詩選」を開くと巻の一の最初に出てきて、讀んでいるうちに疲れてきて「唐詩選」を読むのを止めた、というひともものすごく多いと思います。
中原還逐鹿、 中原にまた鹿を逐(お)い、
投筆事戎軒。 筆を投じて戎軒(じゅうけん)を事とす。
という出だしでもうイヤになってくる。
有名な故事を踏まえているわけですが、誰のどんな故事か、解説を求めなければならなくなります。
とりあえず「中原」はいいや。黄河流域の「夏文明」の発祥地のことであるが、まあ「天下」ぐらいの意味で使っているのでしょう。「また」と言っているのは、歴史的には以前にも同じような状況があって、今回が二回目だ、といっているようである。
「鹿を逐う」は「漢書・萠(※)通伝」の言葉である。(※本来ここには「萠」の右に「刀」のついた「カイ」という字を書きたいのですが、該当する字が無いので「萠」で代理します。)
萌通は韓信のために漢の高祖に反することを薦めた謀臣でしたが、韓信はその策を用いないうちに高祖に誅殺されてしまいました。「狡兎死して良狗烹らる」(逃げ足の速いをウサギを捕まえれば、要らなくなった狩猟犬は煮て食べ物にされてしまう)の故事でございます。その後、高祖は姿をくらました萠通を捕らえさせ、韓信に反乱を薦めた罪をあげつらうた。
このとき、萠通は答えて、
秦失其鹿、天下共逐之。
秦、その鹿を失い、天下ともにこれを逐う。
秦がその鹿(「覇権」)を手放してしまい、それを天下の英雄たちがともに追いかけたのではございませんでしたか。
それは陳勝・呉広が追いかけはじめ、楚の覇王・項羽に捕らえられそうになったが、その手元をするりと抜けて漢高祖・劉邦のもとに入り込んだ。それをもう一度、韓信が求めたところで何がおかしいのか。
「ただ、あの男はわしの言うことを聞きませんでしたので、とうとう大王さまに捕らえられ、誅殺されたのでした。それだけのことです」
高祖はこの言を気に入り、通の罪を許すとともに自分に仕えるよう誘ったが、したがわなかったという。
・・・「投筆」は・・・、「戎軒」は・・・、とどんどん解説が必要になってまいりますね。
以下、続く。
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なお、徐世勣の説得に成功した魏徴はこのあと太子洗馬として当時の太子・建成に仕えたが、建成が弟の世民に敗れた(玄武門の変)後はこの世民(後の太宗皇帝)に仕え、ともに貞観の治といわれる時代を切り開いたのでございますが、このときはまだそのような彼の将来はまだまったく定まっておりません。