じめじめしてまいりました。わしはじめじめ人間なので、じめじめに感応しやすいのです。心にウツ、体にカビが生えてくるんだよ。
・・・・・・・・・・・・・・
杜甫の詩に
南京犀浦道、 南京犀浦の道、
四月熟黄梅。 四月、黄梅熟す。
湛湛長江去、 湛湛(たんたん)として長江去り、
冥冥細雨来。 冥冥として細雨来たる。
南京の犀浦のあたりでは
四月には梅が黄色く熟れつくす。
(そのころ)水かさを増しながら長江は流れ去り、
暗い空から細かな雨が降り始める。
という。唐の詩人が「南京」というときは、江南の金陵、すなわち明以降のナンキンをいうのではなく、四川の成都のことをいうから、四川では陰暦の四月に梅雨になったことがわかる。
柳宗元の詩には
梅実迎時雨、 梅実は時雨(じう)を迎え、
蒼茫覚晩春。 蒼茫として晩春を覚ゆ。
梅に実がなると雨の季節になりまする
青白く遠くまで雨にかすんで、春は暮れゆくのだ。
とある。「晩春」は旧暦の三月をいう語であるから、この詩では梅雨は三月である。
けだし、
此子厚嶺外之作。
これ子厚、嶺外の作なり。
この作品は、柳宗元(子厚は宗元の字)が南嶺山脈の外、すなわち広東に赴任していたときのものである。
から、広州の梅雨が三月だ、ということなのである。
さらに、宋代に陸佃の撰した字書「埤雅」には、
江湘二浙、四五月間有梅雨、黴敗人衣服。
江・湘・二浙、四五月の間に梅雨あり、人の衣服を黴敗す。
江西、湖南、浙東・浙西の地方(いずれも長江の中下流域である)では、四月から五月にかけて梅雨になり、人びとの衣服にカビを生じせしむるのである。
とあり、長江の中流以下の地域では、五月まで梅雨であることがわかる。
これらのことから、
是知天地時候自有不同如此。
これ、天地時候のおのずから不同あることかくの如きを知る。
天地の地域が違うと、季節にもおのずから違いがあること、このようであることを知ることができる。
・・・・・・・・・・・・・・・
明・朗瑛「七修類稿」巻二十八より。ここ沖縄では台風だが、みなさまのところには明日か明後日行くのかな。