平成24年6月17日(日)  目次へ  前回に戻る

 

昨日は頭痛がひどくて更新できませんでした。今日もひどいんです。ぎぎぎ。途中で更新断念するかも。

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清の初めのころ、新たに支配下に入った江南地方の税金は農地所有者を対象に、たいへん高く設定されたのでございます。そしてその徴税は厳しく行われた。特に江南巡撫の朱国治は、収税をきちんと行うのが国家の根本を固めることである、として、いくらかでも払えない家があると、脱税の罪に問うて次々に家財を没収するとともに、流罪・追放などの刑罰に処したのでありました。

於是両江士紳得全者無幾。

ここにおいて両江の士紳の全きを得る者、いくばくも無し。

このため、江東・江西の地主たちで、無事に税を払いきり、家をつぶさなかったものは、ほとんど無かった。

方光琛なる者がおりました。

彼も江東の書生で、地方試験を受けたあと脱税の罪に問われ、ついに亡命して広州に逃げた。

当時の広州は、いわゆる三藩の領土でありました。明末清初の乱時に明を裏切り、清の建国に大きな功績を上げた三人の漢人有力軍閥が、チュウゴクの南端に半ば独立を許されていたのでございます。

方光琛は三藩の中でも最も大きな勢力を持つ呉三桂のもとに転がり込み、その幕僚となったのでありました。

やがて「撒藩の論」が起こります。広州に蟠る三藩を廃止(「撒藩」)し、それぞれの藩王にはかわりに莫大な年金を与える、藩王たちは自らこのことを申し出るべきである、という議論が、北京宮廷を中心になされていたのであります。

ある日、呉三桂は一人私邸で休息しておりましたが、ふと、

令人取所素乗馬与甲来。於是貫甲騎馬、旋歩庭中。

人をしてもと乗るところの馬と甲を取り来らしむ。ここにおいて、甲を貫き、馬に騎り、庭中にて旋歩す。

ひとに命じて、むかし乗り回していた馬と、身に着けていたよろいかぶとを持ってこさせた。そして、よろいかぶとを身に着け、馬に乗って、私邸の庭をぐるぐると闊歩したのである。

何周かめぐった後、馬を止めた。

自顧其影、歎曰、老矣。

自らその影を顧み、歎じて曰く、「老いたり」。

自分の影を見下ろし、ふう、とためいきついて言うた。

「年をとったものじゃのう」

呉三桂はこのとき既に六十を越え、七十に近い。隠棲を考えてもよい年であるのは確かだ。

と、左側の廂から、若い幕僚がつつ、と進み出た。

方光琛である。

―――聞かれたか・・・。

光琛、畏まっていう、

王欲不失富家翁乎。

王は富家の翁たるを失わざらんと欲するか。

「藩王さまは、大金持ちの御老公、の地位さえ守れればよろしいのですかな」

―――!

「もしそうであれば、藩王の地位を皇帝にお返しして、莫大な年金を貰えばよい、とお思いになるかも知れませぬ。されど・・・」

「されど?」

光琛、ぎろりと三桂の目を見上げて、

一居籠中、烹飪由人矣。

一たび籠中に居らば、烹飪ひとに由らん。

「一度鳥かごの中に入りましたならば、煮方も味付けも他人任せ―――と申しますぞ」

「・・・よい」

「は?」

「もうよい!」

三桂は光琛を下がらせた。

それから馬を降り、よろいかぶとを外して、その日は暮れるまで、庭を見ながら考え込んでいたらしい。

やがて、ついに反乱を決意した呉三桂は、多く方光琛の策を用いて長く清軍を苦しめた。いわゆる「三藩の乱」(1673〜1681)である。

乱は二代目の呉世璠の代に入って収束した。三藩側の敗北であった。

光琛亦就擒、磔於市。

光琛もまた擒に就き、市に磔せらる。

方光琛も捕らえられ、刑場で磔刑に処せられた。

衆人環視の中で、かなり痛いやつで殺されたのである。

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清・周寿昌「思益堂日札」巻四より。

方光琛のような、本来国家の有能な官吏になるべき人材をムホンに関与させたのは、もとを正せば税金への不満が原因でしたのやわ。ゲンダイ国家では、税金は民主的に選ばれた議会が厳しいメディアの監視の中で決めるから、こんな不満は無いでしょうけどね。 ・・・え? 選挙のときに増税しないと公約して政権をとっておいて、増税する政権がある? しかもそれをマスメディアが容認? なんやそれ? 頭痛なってくるわ・・・。

 

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