平成24年6月19日(火)  目次へ  前回に戻る

 

こんばんはー! 二世・肝冷斎ちゃんでちゅ。昨日の更新を見ると、初代肝冷斎は沖縄方面に潜んでいるようでちゅね。

さて、沖縄を過ぎてやってきた台風四号ちゃん。ただいまちょうど関東地方を掠め過ぎて行こうとしています。

びゅうびゅうたり暴風、じゃぶじゃぶたり強雨。

この夜闇の中に叫び吼える嵐の声、低気圧の不気味なる軋み。陰鬱なる都会の民どもよ、この亜熱帯の力を味わえ、わははは・・・。

台風が来ると元気になる人は多くおります。かくいうわたしもその一人。台風が来て気圧がさがってくると、何かでかいことしたくなってまいりまちゅ。

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南朝・宋の宗炳(字・少文)、その甥っ子の宗愨(そうかく)(字・元幹)に訊いた。

君志何若。

君が志、いかんぞ。

「おまえは、どうなりたいと思っているのじゃな?」

甥っ子は答えた、

願乗長風、破万里巨浪。

願わくば長風に乗じ、万里の巨浪を破らん。

「おいらは、できたらはるかな風に乗り、万里も横たわる巨大な波を突き抜けてみたいのでちゅ!」・・・@

何かでかいことがやったるというのです。

宗炳、その答えを聞き、

汝不富貴、即破我家矣。

なんじ富貴ならずんば、すなわち我が家を破らん。

「おまえは富貴の地位に立てばよいが、そうならなかったら、(無茶なことをして)我が家系を断絶させてしまうであろうな」・・・A

とほほ笑んだという。

ところで、まずおじきの宗炳の方は「宋書」巻九十三に伝あり。巻九十三というのは「隠逸伝」です。陶淵明などと並んで記述されているのである。

それによれば、宗炳は南陽の人で、祖父は宜都太守、父は湘郷令を務めた累代の名家に生まれた。

宋の高祖(武帝)より何度か仕官を薦められたが、

棲丘飲谷三十余年。

丘に棲み谷に飲むこと三十余年なり。

山に暮らし、谷川の水を飲んで、もう三十年以上になります。いまさらほかの生活をできませぬ。

と答えて断った。

琴と書を善くし、自然の理に詳しく、つねに山水の間をほっつき歩いて、帰ることさえ忘れる―――という暮らしを続け、あるときは廬山に登り、そのまま山中で名僧・慧遠のもとに留まっていたが、義兄に逼られて連れ戻されたこともある。

於江陵三湖立宅閑居無事。

江陵三湖に宅を立てて閑居事無し。

江南・江陵の三つの湖の間の地に家を立て、ここに何もせずにのどかに暮らしていた。

兄二人が早逝したため暮らしに困るようになってから、さすがに山水への遠遊は減ったが、仕官せず田畑を耕すを業として甥たちを育てた。宋の三代目の元帝にも何度となく召されたがすべて応ぜず、晩年は足腰も弱まり、家に籠るようになったが、部屋にかつて遊んだ名所山水の画を描いて

臥以遊之。

臥して以てこれに遊ぶ。

「わしは、横になったままで旅をしているのだ」

と称していた。(これは「宗炳臥遊」という有名な故事になっています。)

また、室中で若いころから得意の琴を弾じ、

撫琴動操欲令衆山皆響。

琴を撫し操を動かして衆山をしてみな響(とよ)ませんと欲す。

「わしは琴を爪弾き、琴柱を動かして、身の回りに描かれた山々をすべてどよめかせようとしているんだよ」

と言うていたそうである。

元嘉二十年(443)卒、年六十九なり。

一方、甥っ子の宗愨巻七十六に伝あり。朱脩之、王玄謨らと並んで宋の盛期に大きな功績をあげた武人として記述されている。

ちなみに上に引いた@Aは、この巻七十六・宗愨伝の方に記載されている有名な会話です。「長風に乗じ、万里の巨浪を破る」という言葉は、百年ぐらいのうちにはセンター試験に出るかも知れませんから、出ないと思うけど、覚えておきましょう。

彼は上述の宗炳の早逝した兄のうちの一人の子であるが、年十四で家に押し入った盗賊十四人と闘って追い返したほど智慧と勇気に富んだ若者であった。しかし、そのころは文学を尊び武勇を賤しむ風があったので、郷里においては重用されなかったという。

後、文帝のもとで振武将軍となり、元嘉二十二年に林邑(ベトナム)征伐で大功をあげた。また雍州の蛮族退治、竟陵王の反乱鎮圧などに一代の名将・沈慶之(参考→「沈慶之伝」)とともに活躍し、官は豫州刺史、さらに洮陽侯を授けられ、死後には征西将軍を贈られている。

ということで、このおじきと甥っ子はずいぶん違った曲線を描きながら、それぞれの人生を望み通りに全うしたわけである。

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・・・そろそろ風雨も弱まってまいりました。もう台風祭り終わりか。かつて少年の覇気に満たされていた我が人生も、すでに終わり近い。ノブナガさまの死んだ歳よりも年上になりました・・・。ぐすん。寝ます。亜熱帯の夢でも見ながら・・・。

 

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