肝兵衛でござる。すごいやる気無くなってきた。やっぱり週の真ん中あたりは休まないと・・・。
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くだらんといえばくだらんことですが、「論語」陽貨篇に、公山弗擾(こうざんふつじょう)なる人物に孔子が招聘されたときのことが記されております。
公山弗擾というひとは魯の一都市である費の宰(指導者)であったそうですが、魯の実権を握る三桓氏(魯の公族の三氏)に反して、費に拠ってムホンを起こした。この際、同じように魯の国内の革新勢力であった孔子に自分と行動をともにしないかと誘いをかけたというのである。
そのとき、孔子はその招きに応じようとした。
高弟の子路(←彼は三桓氏の勢力に近い)はこのことをよろこばず、あからさまに反対した。そのとき、孔子は
「わしを招く者は、無為にそのようなことをするわけではあるまい。
如有用我者、吾其為東周乎。
もし我を用いる者あらば、吾はそれ、東周を為さんや。
もしわしをきちんと活用してくれる者がいたら、わしは、そうだ、「東周」をするぞ(しないぞ)」
と言うた、という。
結局、孔子はどういう判断であったか、最終的には公山氏の招きに応じなかったらしい。
・・・・・・・・・・・この事件は定公十二年(前498)のことであるとされております。
さて、孔子が「東周」と言っている、「東周」とは何であり、どういう性格のものだと理解されていたのでしょうか。
もっと単純化しまして、
ア)「東周」とはすばらしいものなのか。
イ)「東周」とはよくないものなのか。
どちらだと思いますか。
これがわからないので、上で下線を引いたように、「東周を為さんや」の解釈ができません。「為さんや」が意思なのか、反語なのか判断がつかないのです。
ちなみに一応の手がかり。世界史の授業では、
【周は紀元前11世紀に殷を放伐して中原を支配したが、幽王のときに異民族の侵入によって国乱れ、平王が東に都を移した。これが紀元前770年のことであり、これを「周の東遷」と呼び、これ以前の周を「西周」、これ以降の周を「東周」という。】
と習いましたね。孔子はまさに「東周」の時代のひとなのですが、彼のいう「東周」はこの「東周」と同じ意味? 同じ意味だとしても「東周」はいいこと? 悪いこと?
この肝兵衛も長いこと考えあぐねていたことなので、みなさんもちょっと考えてみてくだされい。(知っているひとは黙っていてね)
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答えは・・・やる気ないので次回でござる。