頭痛で頭が痛いんですわ。しかし、本日は某有名HP(2012.4.10)で唐の孟郊が話題になっておりましたので、時流に乗り遅れないように孟郊について述べます。
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孟郊は字を東野といい、洛陽の人である。初め嵩山に隠棲して「処士」(仕官しないひと)と自称していた。後述の如く彼の科挙に合格して進士になったのは遅かったが、それには隠者をしていた、という事情もあったのである。性格は偏屈なところがあり、人と付き合うて楽しむということが少なかったが、韓愈と知り合って、彼とは詩と酒を取り交わす親しい仲となった。(韓愈は詩人・文学者であるだけでなく、中唐期の新興地主階級を代表する政治家でもありますから、孟郊にもそういう政治的な立場があったことがわかります。)
孟郊が進士になったのは貞元十二年(796)、時に年五十近かった。
早速、溧陽(りつよう)の尉(市警の署長さんぐらいのイメージかな)に採用されますが、同県にはいろいろ名勝の地が多く、孟郊は
間往坐水傍、命酒揮琴。
間に往きて水傍に坐し、酒を命じ琴を揮わしむ。
あてどもなく川のほとりに座を設け、(官妓たちに)酒を酌ませ、琴を弾かせた。
遊びほうけていたのである。
ために、
曹務多廃。県令白府、以仮尉代之、分其半俸。
曹務多く廃す。県令府に白(い)い、仮尉を以てこれに代え、その半俸を分かつ。
役所の仕事がほとんど進まなくなった。そこで上司の県令が上級機関である府に申請して、尉官の代理を派遣してもらい、孟郊の給料を半分にして、代理の給与に充てた。
仕事をしない役人だったのだ。
このような状況であったので、すぐに官を辞めて洛陽に戻り、韓愈の政治的同士でもある李翺のもとで賓客扱いになって、日に談論を楽しんでいた。ついで李翺の推薦で興元節度使・鄭余慶の参謀となって司法のことに当たるが、在職中に亡くなった。
鄭余慶は義に篤く、数万銭を出してその葬儀を営むとともに、彼の遺した妻子の面倒を見続けたという。
彼には洛陽時代に多くの弟子がおり、「貞曜先生」と諡名せられた。この弟子たちは孟郊の死に際して「心喪」(精神面において喪に服すること)したそうですから、弟子たちからは敬愛されていたのでしょう。妻子も居やがったので、(わしらと違って)孤独のうちに身を終えた、というわけではない。
孟郊は
拙於生事、一貧徹骨、裘褐懸結、未嘗俛眉為可憐之色。
生事において拙にして、一貧骨に徹し、裘・褐懸結するもいまだかつて眉を俛(ふ)せて憐れぶべきの色を為さず。
生活のためにすべきことは何でもかんでもたいへん下手くそで、貧乏というものが骨にまで染みわたっていたひとである。冬の服である毛皮の衣(「裘」)と夏の服である麻の着物(「褐」)が、どちらもぼろぼろなので、両方繋いでようやく一着の服になるような状態であったが、一度も眉を垂れて同情を引くような姿はしなかった。
そして、義として必要なときには十分な贈り物をしたという。
その詩は、韓愈が特に称賛したが、
多傷不遇、年邁家空、思苦奇渋、読之毎令人不懽。
多く不遇を傷み、年は邁に家空しく、苦を思い奇渋にしてこれを読めばつねに人をして懽(よろこ)ばざらしむ。
たいてい自分の不遇であるのを悲しみ、毎年の実りは少なく家の中は素寒貧、ありえないほど苦渋に満ちた内容で、これを読んだ人は誰も彼もイヤな気持ちになるほどであった。
例えば、
借車載家具、家具少於車。 車を借りて家具を載せるに、家具、車より少なし。
転居せねばならなくなって数台の荷車を借りて家具を載せることにしたが、家具の数が車より少なかった。
とか、
吹霞弄日光不定、 霞を吹き日を弄びて光定まらず、
暖得曲身成直身。 曲身を暖め得て直身を成す。
(春の初めの風が)霞を吹き、日光を妨げるので日当たりが悪く、
凍えて背中を丸めているわしは、火で温まってようやく背中を伸ばすことができたのだった。
とか
愁人独有夜燭見、 愁人ひとり有りて夜燭に見る、
一紙郷書涙滴穿。 一紙の郷書、涙滴り穿たん。
悲しみに沈むわしはただ一人、夜のともしびの下で、
一通のふるさとからの手紙を讀む。――こぼれおちる涙で紙には穴があいた。
とか、あるいは試験に落ちたときの有名な作品には、
棄置復棄置、情如刀剣傷。 棄て置かれ、また棄て置かれ、情は刀剣の傷の如し。
棄て置かれたのだ。また棄て置かれたのだ。わしのこころには、刀でつけたような傷だけが残った。
とか、
皆哀怨清切、窮入冥捜。
みな哀怨清切にして、冥捜に窮め入れり。
どれもこれも悲しく、恨みがましく、切なく美しいほどで、闇の中に奥深く入り込んでようやく捜し出してきたかというような詩句である。
ところがこのひとが進士となり、「初めて第に登るの吟」の中で、
昔日齷齪不足嗟、
今朝曠蕩恩無涯。
春風得意馬蹄疾、
一日看尽長安花。 (意味などは上記「某有名HP」を参照してください。)
などとやったものだから、
当時議者、亦見其気度窘促。
当時の議者、またその気度の窘促(きんそく)せるを見る。
そのころの識者たちは、どうも彼の度量では(この時点が最高頂で)、今後どんどん苦しむ方に向かっていくであろうと見てとった。
その後、
卒漂淪薄宦、詩讖信有之矣。
ついに薄宦に漂淪するは、詩讖、まことにこれ有るなり。
とうとう低い役職をわたりあるいて終わったのであるから、詩によって将来が占われるということが、本当にあるのである。
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のだそうです。
元・辛文房「唐才子伝」巻五より。
ちなみにまことに蛇足のことながら、やたら字画数の多い「齷齪」という語につきまして一言。
この語、今の国語辞典では「あくせく」とされていますが、本来「あくさく」。「齷」も「齪」も漢代の字書「説文解字」には採用されていない文字ですが、「齷」(アク)は「小さい」ことをいい、「齪」(サク)は「歯の触れ合う音」をいう。「齷齪」と熟して、歯と歯の間が狭いこと。転じて心がせまく、こせつく、の意となったという。
六朝の詩人たちによく使われた言葉で、鮑照の「放歌行」に
小人自齷齪、 小人おのずから齷齪、
寧知曠士志。 なんぞ知らん、曠士の志を。
ちっぽけなやつらは心ももちろんちっぽけで、
でかいおとこのこころざしなど解からぬよ。
とあるのが代表的な例であるという。(諸橋先生「大漢和」、前野先生「字源」による)