花寒です。寒いですね。でも「寒い寒い」と言っておりますと、↓のようになってしまうかも・・・。
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元〜明のひと南村先生・陶宗儀の「南村輟耕録」(巻十五)に、五台山に不思議な鳥がいることが書かれております。
その名は「寒号蟲」(かんごうちゅう。寒い中で泣き叫ぶドウブツ、の意)。
鳥といいながら
四足、有肉翅、不能飛。
四足にして肉翅あり、飛ぶあたわず。
四本足である。(羽毛でなく)肉で出来た翼があるが、飛ぶことはできない。
東璧・李時珍の「本草綱目」によれば、実は熱帯地方に産するコウモリの一種ということだ。
「いやいや、コウモリは鳥でありません!」
と学校で習いましたが、しかし南村先生は「鳥」と書いているので、以下も「鳥」と表記します。
この鳥、
当盛暑時、文采絢爛。乃自鳴曰、鳳凰不如我。
盛暑の時に当たりては、文采絢爛(けんらん)たり。すなわち、自ら鳴いて曰く、「鳳凰も我に如かず」と。
夏の暑い盛りのころ、その姿は、(羽毛に覆われ)模様のいろどりもピカピカときらめいている。そのときには彼は自分で自分のことを
「伝説のおおとり――鳳凰だとてもわしのようには美しくあるまい」
と鳴くのである。
「コウモリが言葉を話すなんて学校では習ってないぞ」
とお叱りはあるかも知れませんが、南村先生がそう書いているので、以下もコトバを話すことを前提に話を進めます。
ところがこの鳥、
比至深冬厳寒之際、毛羽脱落。
深冬厳寒の際に至る比(ころ)、毛羽脱落す。
真冬の厳寒のころになると、体中の羽が落ちてしまうのである。
まるでこれから料理されるために、皮を剥かれたヒナ鳥のような姿になってしまう。
そのとき、彼は今度は
自鳴曰、得過且過。
自ら鳴きて曰く、「過ぎたるを得たるはまさに過つなり」と。
自分で鳴いて、
「うまく行き過ぎるということは実は間違いだったのだ」
と歎くのである。
嗟夫(ああ)。
この世には、自分の守るべき分を理解して、そこに立ち止まらない人が何と多いのであろうか。
自分の守るべき分を理解できない者は、郷里で静かに暮らすことができず、まわりを見て、必ず「おれは彼らとは違うのだ」と思い、自らを奮い立たせてわずかに一尺の名誉、一寸の富を求める。その志を得たときには、天下に自分以上のものがあろうかと自認するのだが、ややも不遇に陥り、他人から貶され見くだされるに至るや、「論語」に出てくるあの「喪家の狗」(葬式の家の犬のように構ってもらえず、餌ももらえずにげんなりしている状態)のように、頭と耳を垂れ、尾を揺らせながら人に憐みを乞うようになる。
視寒号蟲何異哉。是可哀已。
寒号蟲を視ると何ぞ異ならんや。これ、哀れむべきのみ。
「寒号蟲」とどこが違うというのだろうか。あわれなことではないか。
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今日のお話は、みなさんの心にぐさりと突き刺さり過ぎたかな? え? まだわからない?
なお、この寒号蟲の糞が「五霊脂」という漢方薬になるそうです。念のため。