平成24年4月11日(水)  目次へ  前回に戻る

 

花寒です。寒いですね。でも「寒い寒い」と言っておりますと、↓のようになってしまうかも・・・。

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元〜明のひと南村先生・陶宗儀「南村輟耕録」(巻十五)に、五台山に不思議な鳥がいることが書かれております。

その名は「寒号蟲」(かんごうちゅう。寒い中で泣き叫ぶドウブツ、の意)。

鳥といいながら

四足、有肉翅、不能飛。

四足にして肉翅あり、飛ぶあたわず。

四本足である。(羽毛でなく)肉で出来た翼があるが、飛ぶことはできない。

東璧・李時珍「本草綱目」によれば、実は熱帯地方に産するコウモリの一種ということだ。

「いやいや、コウモリは鳥でありません!」

と学校で習いましたが、しかし南村先生は「鳥」と書いているので、以下も「鳥」と表記します。

この鳥、

当盛暑時、文采絢爛。乃自鳴曰、鳳凰不如我。

盛暑の時に当たりては、文采絢爛(けんらん)たり。すなわち、自ら鳴いて曰く、「鳳凰も我に如かず」と。

夏の暑い盛りのころ、その姿は、(羽毛に覆われ)模様のいろどりもピカピカときらめいている。そのときには彼は自分で自分のことを

「伝説のおおとり――鳳凰だとてもわしのようには美しくあるまい」

と鳴くのである。

「コウモリが言葉を話すなんて学校では習ってないぞ」

とお叱りはあるかも知れませんが、南村先生がそう書いているので、以下もコトバを話すことを前提に話を進めます。

ところがこの鳥、

比至深冬厳寒之際、毛羽脱落。

深冬厳寒の際に至る比(ころ)、毛羽脱落す。

真冬の厳寒のころになると、体中の羽が落ちてしまうのである。

まるでこれから料理されるために、皮を剥かれたヒナ鳥のような姿になってしまう。

そのとき、彼は今度は

自鳴曰、得過且過。

自ら鳴きて曰く、「過ぎたるを得たるはまさに過つなり」と。

自分で鳴いて、

「うまく行き過ぎるということは実は間違いだったのだ」

と歎くのである。

嗟夫(ああ)。

この世には、自分の守るべき分を理解して、そこに立ち止まらない人が何と多いのであろうか。

自分の守るべき分を理解できない者は、郷里で静かに暮らすことができず、まわりを見て、必ず「おれは彼らとは違うのだ」と思い、自らを奮い立たせてわずかに一尺の名誉、一寸の富を求める。その志を得たときには、天下に自分以上のものがあろうかと自認するのだが、ややも不遇に陥り、他人から貶され見くだされるに至るや、「論語」に出てくるあの「喪家の狗」(葬式の家の犬のように構ってもらえず、餌ももらえずにげんなりしている状態)のように、頭と耳を垂れ、尾を揺らせながら人に憐みを乞うようになる。

視寒号蟲何異哉。是可哀已。

寒号蟲を視ると何ぞ異ならんや。これ、哀れむべきのみ。

「寒号蟲」とどこが違うというのだろうか。あわれなことではないか。

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今日のお話は、みなさんの心にぐさりと突き刺さり過ぎたかな? え? まだわからない?

なお、この寒号蟲の糞が「五霊脂」という漢方薬になるそうです。念のため。

 

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