昨日は更新休みました。おもてのしごとのせいですのでわたしのせいではありません。
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さて、一日おくれになりましたが、欧陽脩が「新五代史」に載せた「笑ってはいけないのに笑ってしまった」例とは何でありましょうか。
五代・後梁の「鄭玨伝」を閲するに、
唐を滅ぼして天下を簒奪した朱全忠の梁(いわゆる「後梁」)に対して、唐の後継を以て任ずる河北の李氏政権(唐の李氏とは本来何の関係もない)は後梁の弱体化に乗じて梁末帝の龍徳三年(923年)、荘宗・李存勗のもと大挙して梁都に攻め寄せ、ついに唐を再建(いわゆる「後唐」)した。
このときのこと、
梁の末帝・朱瑱は李氏の軍が近づいたと聞いて狼狽し、信頼する鄭玨に
哭問計。
哭して計を問う。
大声を上げて泣きながら、「どうすればいいのか」と問うた。
玨、
「一つだけ策がございます」
とおもむろに曰く、
以伝国宝入唐軍緩其進、以待救兵之至。
伝國の宝を以て唐軍に入れ、その進むを緩うし、以て救兵の至るを待たん。
「(唐王朝以来の)代々伝えられてきた名宝の類を唐軍にわいろに献上して、少しその進軍を遅らせるのです。その間に、どこかの国から救いの兵が来るかも知れません」
当時の情勢からみて、梁を救う国は客観的に見て有り得ないことであった。
しかし藁にもすがろうという帝は言う、
能了事否。
よく事を了するや否や。
「う、うまくいくだろうかの?」
玨、答えて言う
恐不易了。
恐らくは了し易からざらん。
「さあ・・・。おそらくうまくいかないでしょうな」
と。
于是左右皆大笑。
是において左右みな大笑せり。
これを聞いて、左右に侍っておった近臣たちは、みな大笑いした。
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以上。追い詰められた者たちの心理としてなんとなくわからないでも無いですね。
さて、ところで、明の天啓年間のことであります。
明の黄Uの「碧血録」によれば、丙寅の年、といいますから、天啓六年(1626)のことですが、五月六日、北京において地震があった。
一人折腿臥地呻吟。
一人、腿を折りて地に臥して呻吟す。
あるひと、倒壊した物に足を折られて、地面に倒れ、苦痛に呻いていた。
「ぐぐぐ・・・」
と、そのとき、彼は、
見婦人赤身以物掩下体過。
婦人の赤身にして物を以て下体を掩いて過ぐるを見る。
若い女が素っ裸で逃げてきたのを見たのであった。わずかに下半身を端切れのようなもので隠しているだけである。
「やや。わはは、これはいい眺めじゃ・・・いてて」
此人又痛又笑。
この人、また痛みまた笑えり。
彼は倒れ臥したまま、痛がったり、笑ったりしたのである。
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このひと、姓を項といい、後に満州族との戦いで勇名を馳せることになる武人なのだそうですが、本当にそんな状況下で笑ったりしていたのでしょうか。
其笑非当時事理也。
その笑、当時の事理にあらざらん。
そんなところで笑うなんて、その時の状況から推してありえないであろう。
だいたい、
明人喜言笑者、由趨風気偽言之。
明人の笑を言うを喜ぶは、趨風の気によりて偽りてこれを言う。
明の時代のひとは「笑」と言うことばを使うのが好きである。これは、当時の気風というべきもののせいで、本当はそうでなくてもそういうのである。
明末の崇禎時代に、上奏書の中によく
豈不笑破天下之口。
あに天下の口を笑破らざらんや。
(そんなことでは)天下中のひとびとが大笑いし、ためにひとびとの口が笑い破れてしまうことになりましょうぞ。
という言い回しが使われたのも、当時としてはそれが強い気持ちを表すもの、と理解されていたからなのである。
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以上。
一昨日からの「笑ってはいけないときに笑った」事例は、自分で調べたわけではなくて実は全部、清の兪正燮先生の「癸已存稿」巻十四に書いてあったことです。どうもすいません。えへへ。
いずれにせよ、笑ってはいけないときに笑ってしまうとほんとに困りますよね。特に面接官の前で、とか、相手方御親族の前で、とか。しかし、「笑ってはいけない場だった!」と気づくのは笑ってしまった後でしかありえないのでしかたありません。あきらめて次の機会にがんばろう。