平成24年1月31日(火)  目次へ  前回に戻る

 

そろそろ春になりましたかな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

せっかく冬眠から覚めてみたので、「論語」の講義でもしていきますかな。

孔子はおのれの理想が世に行われないのを嘆いて、

子欲居九夷。

子は九夷に居らんと欲す。

先生は、九夷の地で暮らそうと思われたことがあった。

「論語」子罕篇にあります。

或曰、陋。如之何。

あるひと曰く、「陋なり。これをいかんせん」と。

それを聞いて、あるひとが言うた、

「すごいいなかものどもですぞ。どうにもしようがありますまい」

と。

先生は答えておっしゃった。

君子居之、何陋之有。

君子これに居らば、何の陋かこれ有らん。

「立派なひとがそこにいるのなら、すごいいなかということがあろうか」

・・・以上。

さてさて。

ここで出てくる「九夷」とは何でしょうか。ああ気になる気になる〜。

漢代の「白虎通」に拠れば、

九夷之國、東方為九夷。

九夷の國なり。東方は九夷たり。

「九夷」という国のことである。東の方にあるのが「九夷」である。

そして、

九之為言、究也。

九の言たるや、究なり。

「九」というのは、「究極」の「究」のことである。

つまり、「九夷」とは「さいはてのえびす」の意である、という。すなわち、孔子はさいはての地に逃れて、自分の理想の國をそこに創ろうとした・・・のかな?

六朝以後の諸解は「九夷」を解して次のように説く。

ア)魯より東方にあった(ちゅう)や(きょ)などの九つの小都市国家のことでありまするのじゃ。

イ)斉から黄海を渡った向こう岸にある元菟、楽浪、高麗、満飾、鳧臾、索家、東屠、倭人、天鄙の九部族をいうのじゃ。

ウ)いやいや、「後漢書」に出てくる、畝、于、方、黄、白、赤、元、風、陽の九種の夷人のことよ。

エ)わはは、何も知らんやつらよのう、周の時代に淮水のほとりにいた文化の低いやつらが「夷」なの。

オ)「戦国策」「楚は九夷を包(か)ぬ」(九夷は楚の領域の中にいる)「楚、南陽九夷を破る」(楚は南陽の九夷を破った)という記述があるのを知らんのか。湖南地方にいた蛮族のことじゃ。

カ)わしもオ)のひとに賛成。「史記」にも(秦は)「南の方漢中をとり、九夷を包ぬ」の語あり。これも楚の国の一部のことと解されている。また、孔子が「九夷にいきたい」などと中国で暮らしていくのに絶望したのは、いわゆる「陳蔡の厄」のときのことと思われ、陳・蔡は後に楚に服属する小国であるから、やはり楚の領域にいる野蛮人どもを話題にしたと考えるべき。

キ)周初の聖人・箕子が亡命した朝鮮のことに決まっているでしょう。朝鮮は「後漢書」「邑に淫盗無く、門は夜も閉ざさず」といわれる道義の國じゃ、孔子が「何の陋かあらんや」(どこがいなかものであろうか)と評したにふさわしい。

ク)わしは朱子であるぞ。ここの「夷」は東方の異国のこと。これはわしがいうのだから間違いない。孔子は海上の國へ桴(いかだ)に乗って出かけようとしたのである。

などといろんな説がございます。

最後の朱子の説は別に朱子が妄想して捏造したのではなくて、漢代の字書である「説文解字」「羗」(きょう)字の解説に拠っているのである。

これによれば、曰く、

南方蛮从蟲、北方狄从犬、東方貉从豸、西方羗从羊。此異種也。西南夷人焦僥从人、蓋在坤地、頗有順理之性。惟東夷从大、大人也。

南方の蛮は蟲に从(したが)い、北方の狄は犬に从い、東方の貉(かく)は豸に从い、西方の羗は羊に从う。これ異種なり。西南夷人の焦僥は人に从う、けだし坤の地にありてすこぶる順理の性あればなり。これ東夷のみ大に从う、大は人なり。

四方の野蛮人どもを呼ぶに、南の南「蛮」は、「虫」(ヘビ)が入っている。北方の「狄」族には「犬」が入っている。東方の「貉」族には「豸」(けもの)が入っている。西方の「羗」には「羊」が入っている。これでわかるように、彼らは人間とは違う種類のもの、いわば「亜人間」なのである。ところが、西南の野蛮人は「焦僥」(しょうぎょう)といい、「人べん」が入っている。彼らが暮らす西南の地は八卦の中で「坤」(大地の象徴)で表される方向である。このため大地のように従順であり、人間の一種なのである。また、東方の「東夷」族に至っては、「夷」を構成するのは「大」と「弓」であり、「大」もまた人間の象形文字である。

夷俗仁、仁者寿、有君子不死之國。孔子道不行、欲之九夷、乗桴浮於海、有以也。

夷俗は仁にして仁者は寿なれば、君子不死の國あり。孔子、道行われず、九夷に之(ゆ)かんと欲し、桴に乗りて海に浮かぶは、以てするあるなり。

東夷のひとは心優しい。心優しいものは長生きだ(と「中庸」にも書いてあるとおり)。だから、東方には「君子の住む不老長寿の國」がある、といわれるのだ。孔子が、

「正しい道がチュウゴクで行われないので、わしは九夷の國に行きたい」

と言うて、いかだに乗って海に浮かんだ―――という行為には、けだし理由のあることであった。

つまり、孔子は蛮族のところに行ってしまおう、と思ったのではなくて、君子ばかりいる不老長寿のユートピアへ逃れようとしたのです、ということになる。「さいはての地」とは大違いなのだ。

しかしながら、孔子はユートピアに行きませんでした。中原の地(当時のチュウゴクの「中原の地」は、西日本より狭いと思ってください)に踏みとどまって、その時代に行われない自らの理想を後の世に向かって説き続けることを選んだのだ。

・・・・・わしは説いているヒマがあったら行きますけどね。

だいたい、東方に倭人がいるのではなくて、もともとゲンダイの江南あたりに住んで稲作・漁労技術を持っておったわしら倭人が、彼奴らに追われて西と東に分かれ、流れ流れて日本國を作ったのですから、憧れられて当然ではあります。

・・・・・・・・・・・・・・・

以上。やはり寒いので、冬眠を続けますのじゃ。春になったら起こしてね。

 

表紙へ  次へ