今日はえらいひとたちと北京ダック食ってきた。いいものを食った。しかも安かった。ぶうぶう。
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「論語」郷党篇にいう、
食不厭精、膾不厭細。
食は精なるを厭わず、膾は細きを厭わず。
(孔子は)食べ物について、よく吟味したのを嫌がらなかったし、肉のさしみについては細かく切ったものを嫌がらなかった。※(→下記参照)
朱子がこれに注して曰く、
食精則能養人、膾粗則能害人。
食精なればよく人を養い、膾粗なればよく人を害す。
よく吟味された食べ物はひとを養生させるし、粗く切ったさしみは食中毒を起こすことがあるからである。
と。
いいものを食うと体にもいいのである。
わしのじいさまもよくこのことを言うていた。
じいさまは八十になってもまだよく飲みよく食うたひとである。
七十いくつのときも、食事の後必ず細かい文字を書いていた。
言うに、
飽食終日、無所用心。
飽食すること終日ならば、心を用うるところなし。
「一日中腹いっぱい食っていると、何かに注意しようということが無くなってしまいよる。
だから、わしはできるだけ細かい文字を書くことにしておるのである」
それから数年経つと、さすがに目が利かなくなってきて、今度は毎食事後、ひとに援けられながら散歩するようになった。
さらに数年後には、足も弱ってきたので、食後には必ず碁を一局打つようにしていた。
言うに、
「飯を食うと必ず脾臓が疲れるものじゃ。何か運動をして脾臓を動かしてやらねばならぬが、体が動かなくなったら、
必須労心以運動之。
必ずすべからく心を労して以てこれを運動すべきなり。
必ず、頭を使って少しでもこの臓器を動かしてやらねばならん」
と。
わしの一族は決して豊かではなかったから、親戚は誰もそんなに食べ物に気を使わなかったが、祖父だけは料理人を雇って食事を作らせ、毎食清酒三杯とおかず三品を用意させていたものである。
しかるに、
五服周親凡百十人、而享大年者亦惟先大父一人而已。
五服の周親、およそ百十人、しかして大年を享くる者はまた先大父一人のみ。
わしからみて服喪の規定が該当する親戚は合わせて百十人になるが、その中で長生きしたのは(料理に気を使った)祖父ただ一人である。
その後わしが役人になってからの上司や朋友の中では、孫寄圃、黄左田、石琢堂、董琴南の四人が食べ物に気を使っていた。そして四人とも長生きした。
この中では、友人の董琴南だけが今でも元気で健啖なること昔のままであるが、この琴南があるとき、わしに訊ねてきたことがある。
「退庵よ、おまえさんは物知りだから、知っていたら教えてくれ。
三世仕官、方解着衣喫飯。
三世仕官して、はじめて着衣と喫飯を解す。
父、子、孫と三代にわたって役人になって、やっと孫の代に着物の着方と飯の食い方がわかるようになる。
ということわざがあるが、これは誰が言い出したのかね。」
わしは答えた、
「その語は南宋の陸放翁の「老学庵筆記」に出てくるね。しかし、「文選」に出る魏文帝(曹丕)の文章に、
三世長者知被服、五世長者知飲食。
三世の長者にして被服を知り、五世の長者にして飲食を知る。
三代続いた富家であって、はじめて着る物のことがわかるようになり、五代続いた富家であってはじめて飲み食いのことがわかるようになる。
というのがある。これがその言葉の淵源だ。三世紀から使っていることわざなのだ」
琴南は
「よくそんなことを知っているなあ」
と驚いてくれが、実はこれは宋の王応麟の「困学紀聞」の受け売りである。
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清・梁章鉅「浪跡叢談」続巻四より。いろんなことよく知っているひとですね。
今日の幹事さんは何代も続いた名家のひとだから、やっぱりいいとこ知ってはりますわ。しかも安かった。これなら毎日北京ダック食える。
※以下、無用のことながら。朱子をはじめ多くの注は、
食不厭精、膾不厭細。
の「厭」を「厭悪」の意にとって上記のような解釈をしていますが、有力な別解として、「厭」を「飽きる」の意に取り、
食は精なるも厭かさず、膾は細きも厭かさず。
(孔子は)食べ物について、よく吟味したものも食べすぎることはなかったし、肉のさしみについては細かく切ってあったとしても、食べすぎることはなかった。
というのがあります。こちらの解釈をとると、上の梁章鉅(の祖父)の論理はまったく崩れてしまいます。が、こちらの方が賢者らしくてかっこいいカモ。食べすぎて「ぶうぶう」言っている孔子さまはイヤですからね。ぶうぶう。