かなり寒いです。よし、温まるような話でもするか。
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明のころです。湖南の少数民族の長官(その民族の酋長を充てる習慣で、これを「土司」といいます)から貢物の上納があった。
差出人を見ると
水尽源通塔平長官司
となっている。
朝廷では少数民族の忠誠を後世に示すため、記録をつかさどる「史館」にその貢納記録を回してきた。
「へー、少数民族がのう。それは感心なことじゃなあ」
史官のひとり(A)は、
疑為三地名、添之云、三長官司。
疑いて三地名と為し、これに添えて「三長官司」と云えり。
おそらく「水尽」「源通」「塔平」の三つの地名が連続して書かれているのだ、と考え、記録書に「水尽源通塔平の三長官のところ上納があった」と書いた。
これを見た別の史官(B)がびっくりした。
此一処非三地也。
これ一処にて、三地にあらざるなり。
これは六字で一つの地名であり、三つの地名ではござらぬ。
そして、わざわざ「大明官制」(明帝国の役職表)を持ち出してきて、「水尽源通塔平長官司」が存在することを説明した。
指摘された史官Aは、
笑曰、楚蜀人近蛮夷、故宜知之、我内地人不知也。
笑いて曰く、「楚蜀人、蛮夷に近ければ、故にこれを知るべきも、我が内地人は知らざるなり」。
笑いながら、「湖南や四川のひとは少数民族が近くに棲んでいるからよくわかるのだろうが、わしのような中原の人間にはよくわからんよ」と言うた。
ところで、こう言われた方の史官Bはたまたま四川の出身であった。
表情も変えず
司馬遷西南夷伝、班固匈奴伝、叙外域如指掌、班馬亦蛮夷耶。
司馬遷「西南夷伝」、班固「匈奴伝」、外域を叙すること掌(たなごころ)を指さすが如きなり、班馬また蛮夷なりや。
司馬遷の書いた史記の「西南夷伝」には雲貴方面の蛮族のことが書かれている。班固の漢書の「匈奴伝」はモンゴル高原以西に威を振るったフンヌ族のことが書かれている。これらはどちらも遠い異域のことを、まるでてのひらの上を指でさすようにたやすく、詳らかに書いているではござらぬか。司馬遷や班固が蛮族だったわけではありますまい。
と、びしっと言いましたので、
「わかりました、わかりました」
史官Aは苦々しげに謝ったのだそうである。
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この史官Bは大文学者の升庵・楊用修であったということである。「古今譚概」巻二十五より。
これは「笑い話」らしいので、笑ってやってください。ぶはははー。笑えば少しは温まるのでは。こころが。