あーあ、明日からまた会社だよ・・・。
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ということで、不安でおどおどしています。
今日は「大戴礼記」(だたいらいき、と読み習っているらしいですが、わたしはそういう書誌学的なやつめんどくさいので「だいたいれいき」と読むことにしています。)についてお話しようと思います。しかし、そうすると「小戴礼記」との関係を語らねばならず、めんどくさい。しかし、明日への不安がひどいので、めんどくさいことであっても「何もしていないよりはマシ」な状況ですので、めんどくさいけど、語ります。
さて、漢の戴徳とそのいとこの子に当たる戴聖は、いずれも当時名高い「礼」に関する学者でございました。そこで、世代が上の方戴徳を「大戴」、下の方の戴聖を「小戴」と申します。
この二人は、当時までに伝わっていた多くの「礼」に関する伝承を編纂して、それぞれ「礼記」(「礼」に関する伝承・解説集)を作っています。
このうち、戴徳が編んだ方が「大戴礼記」、戴聖が作った方が「小戴礼記」なのであります。
その後いろいろ時代を経まして、唐の時代に孔頴達らが「科挙」の試験に使ったりするために「五経」を定めなければならなくなったとき、はたと困ってしまった。
易・詩・書・礼・春秋の五つの学問の、正しい教科書、が「五経」ですが、易・詩・書・春秋は当時「これが古代のひとたちが正しい教科書として用いた「経」だ」というのが、一応定まっておりました。
ところが、「礼」についてはそのようなものが漢代以降定まっていない。
そこで、孔頴達らは、この時点で最も古代の「礼」の内容をよく残している、と思われた「小戴礼記」を「経」にとりあえずしてしまいました。
以降、この書を「礼記」といいます。本来なら「大戴礼記」の方が古代の礼について多くのことを残していた(はずな)のですが、いかんせん、既に多くが散逸して、分量的にも内容的にも「小戴礼記」の比ではなかったのであります。
なお、「礼記」は文字通り「記」であって「経」でないことが明らかなので、それ以降も「何を「礼」に関する「経」とすべきか、については争いがあり、北宋の王荊州の「周礼」説、南宋の朱晦庵の「儀礼」説が有力で、「礼記」「周礼」「儀礼」の三つの古典を「三礼」といい、清代には、古代の礼に関する学者はこの「三礼」を合わせ学ぶべきものとされました。
「礼学」のひと(「礼家」といいますが)はたいへんだったのですなあ。
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曾子(孔子の高弟であった曾参である)が病気になった。二人の息子、曾元と曾華はそれぞれ父の頭と足を抱いて少しでも父親を温めようとしていた。
そのとき曾子は言うた。
微乎、吾無夫顔氏之言、吾何以語汝哉。
微(な)からんか、吾、かの顔氏の言無し、吾何を以てか汝に語らん。
「もうよい。わしには若くして亡くなった顔回先輩のようにすばらしい言葉は遺せそうにない。おまえたちにどんな言葉を遺してやればいいであろうか」
――しかしながら、
と曾子は言う、
「すばらしい言葉は遺せぬとしても、わしは君子として為すべきことは為してきたのである」
・・・と言いながら、曾子は遺言らしきことを言い始めます。その言や良からんか。
夫華繁而実寡者、天也。言多而行寡者、人也。
それ、華繁くして実寡(すく)なきは、天なり。言多くして行い寡なきは、人なり。
「ああ、(顔回先輩のように)花がたくさん開いたのに、実をたくさん成らせる前に夭折してしまうのは、天命というものじゃ。一方、言葉はたくさんいうくせに、実行が伴わないのは、人間の努力が足りないのである。(わしはそう言われないように実行してきたのじゃ)
よいか。
鷹やハヤブサを見てみるがよい。
彼らは山さえも低いとみなし、はるかに高いところにその巣を作る。
魚、すっぽん、カメ、ワニなどを思うてみるがよい。
彼らは深い淵さえも浅いとみなし、その奥に穴を掘って棲んでいるのだ。
それなのに、彼らは人間に捕らえられてしまう。
卒其所以得之者、餌也。
ついにそのこれを得るゆえんのものは、餌なり。
かれらが捕らえられてしまう窮極の理由は、エサに引っかかってしまう、ということなのじゃ。
覚えておくがよい、
苟無以利害義、則辱何由至哉。
かりそめにも利を以て義を害する無ければ、すなわち辱の何によりて至らん。
少しでも利害に目がくらんで正義を枉げてしまうことがなければ、屈辱の思いをすることはありえないのじゃ。
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以下、ありがたい言葉が続きますが、うわあ、またこんな時間か。もう遅いので止めます。「大戴礼記」曾子疾病篇より。要するに、今年こそ「エサ」にもう引っかからないようにして、毎日夜更かししてもいいようにするお。