今年も討ち入りになりました。もう年末ですわ。早く、すべてを清める除夜の鐘を遠く聴きながら、雪の中で眠っていきたいものじゃなあ。
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今日のお話は唐の開元年間、玄宗皇帝の最盛期のことにございますよ。
玄宗帝、天下を巡遊して泰山に至らんとし、まず長安の近く、西岳・華山に登った。
華山の麓・華陰には岳神・華山君の遥拝所があった。本殿は山中にあり、岳神はつねづねにはそこにいますのである。
遥拝所に帝の車駕が至ったとき、帝は突然、車を停めて簾を挙げさせ、
見岳神数里迎謁。
岳神の数里迎謁するを見る。
「岳神が数里先から、ここまで出迎えに来てくれたわい」
と言い出した。
左右の者、なんと答えてよいかわからず、
「は、はあ・・・」
と互いの顔を見合すばかり。
「ええい、出迎えに来てくれておるのに、なぜおまえたちは気づかないのか、岳神に失礼ではないか」
と帝が鷹揚な中にもいらつきをお見せになられたそのとき、さきほどより車駕の後ろに侍っていた華陰の巫女たちの中から、
独老巫阿馬婆奏云、三郎在路左、朱髪紫衣、迎候陛下。
ひとり老巫・阿馬婆の奏して云う、「三郎路の左に在りて、朱髪紫衣、陛下を迎候す」と。
ただ一人、阿馬婆(お馬ばあさん)と呼ばれる老巫女が声をあげて陛下に申し上げた。
「華山神・三郎ぎみは、道の左側に控えて、陛下のお出ましをお待ちしておられますぞ。赤い髪に紫の服を着て。みなさまがたには見えませぬのか」
左右の者たち、あわてて道の左側を見て、敬意を表する揖礼を行った。(ちなみに玄宗皇帝も「三郎」)
「三郎ぎみ、御先導なされます。車を進めよ」
と阿馬婆が言うたので、左右の者たち、また慌てて車駕を進めた。
帝は車の簾を下す間際、
顧笑之。
顧みてこれに笑う。
お馬ばばあの方をちらりと見て、微笑まれた。
帝は、山中の廟に至ったとき、今度は、
見神橐鞬俯伏庭東南大柏樹下。
神の橐鞬(たく・けん)の庭の東南の大柏樹の下に俯伏せるを見る。
橐(たく)は矢ぶくろ、鞬(けん)は弓ぶくろ。
神の(ものと思われる)弓矢入れの袋が、廟の前庭の東南隅にある大いなる柏の木の下に、伏せられているのを見つけた。
左右にみことのりして、お馬ばあさんに、
「あれはナニモノであるか」
と問わせた。(巫女・お馬は、本来、帝と直接ことばを交わせる身分ではないのである)
すると、お馬は、
「おお」
と声をあげ、
対如上見。
対するに上に見らるが如くす。
帝御自身のお目に止まったときのように、身を小さくしてそのモノの前にひざまずき、畏まった。
そこで、
上加敬礼。
上、敬礼を加う。
帝も、うやうやしく礼をなさったのであった。
その上で、左右を通じて再びお馬ばばあに何ごとかを命じた。
阿馬婆、感激に声震わせながら曰く、
―――岳神よ、お喜びあれ。
いま、陛下より御優諚を賜る。
封金天王。
金天王に封ぜられたり。
金天王に任命されましたぞ!
天王への任命は、いまだ南岳神・東岳神・北岳神にはなされず、中岳にのみなされているところ。
まことにめでたきことにございまする。―――
帝はこれに止まらず、自ら筆をとって任命文を書かれ、これを石碑に刻ませて華山廟に建てさせた。
其碑高五十余尺、闊丈余、厚四五尺、天下碑莫比也。
その碑、高さ五十余尺、闊(ひろ)さ丈余、厚さ四五尺、天下の碑に比ぶる莫し。
その碑の大きさは、高さが15〜16メートル、幅が3メートル以上、厚さは1.2〜1.5メートルもあるというもので、天下にこの碑に比べるものとて無いであろう。
唐代の一尺=31.1センチぐらい、で計算しました。
その碑の裏には、このとき帝の巡遊に従っていた太子・王・公以下百官の名を記させ、その壮麗なること言葉を失わしむるに足るほどであった。
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唐・鄭綮「開天伝信記」より。
ああ、ありがたいありがたい。玄宗皇帝は酉年生まれなので、酉年の守り神とされていた西岳(酉は西方である)の岳神をもともと篤く信じておられたのだそうである。(参照せよ→「華山生金」)
途中、下線部分の「顧みてこれに笑う」のところ、茶目っ気も聡明さも人一倍の玄宗皇帝の、巫女・阿馬婆に対するこのほほ笑みに、豊かな含意を感じませんか。阿馬婆の見神能力への称賛、あるいは彼女の才気への満足、あるいは追従者への憐み・・・、いろんなものを感じさせますネ。え? 感じない? そうですか・・・。まあなんにしろ宮仕えはたいへんだなあ。主君次第では討ち入りもしなければなりませんしね。