(昨日の続き。「荘子・山木篇」より。)
不死の道とは何か。任老人は言う。
「・・・東海の海のほとりの國には意怠(いたい)という鳥がいる。その鳥の飛び方はひらひらと風にも逆らうことができず、地面のすぐ近くを飛ぶことしかできぬ。追い風に助けられないと飛ぶこともできないのである。進もうとしても前に飛べず、退こうとして後ろに飛ぶこともできないのだ。ほかの鳥に追いやられて、野原の隅の方に巣を作り、物を食べるにも必ず残り物をあさるばかりで、新しい餌があってもほかの鳥に譲ってしまう。
しかしながら、それゆえに、
其行列不斥、而外人卒不得害、是以免于患。
その行列斥けられず、而して外人ついに害を得ず、ここを以て患を免るなり。
その鳥が群れて飛ぶときにも(風に乱されておのずと一列にならないので)誰も妨げることはせず、(一網打尽にもできないし、餌を以ておびき寄せることもできないので)ニンゲンにはとうとう害せられることがない。だから、外部の憂いから免れていることができるのだ。
これがわしのいう「不死の道」でござる。(←なんだ・・・、ちょっとがっかり)
よろしいかな。
直木先伐、甘井先竭。 ・・・・※
直木まず伐られ、甘井まず竭(つ)く。
まっすぐで建材に使える木が先に伐採され、水質のいい井戸が先に汲みつくされるのだ。
このことをようく御認識なさるがよろしい。
先生は知識と智慧で心や言葉を飾り、愚人どもを驚かせる。自分の行為を正義で律することによって、他人の汚れた行為を目立たせる。先生のやり方は
昭昭乎若掲日月而行。故不免也。
昭昭として日月を掲げて行くがごとし。故に免れざるなり。
ぴかぴかと照る太陽と月を掲げて歩いているようなものでございます。だから、狙われてこのような苦しみに遇うのでございますよ。
ああ。
わしは、昔、まことの成功者(「大成之人」)の弟子でございました。
まことの成功者は、あるときわしらにおっしゃったことがある。
自伐者無功、功成者堕、名成者汚。
自ら伐(ほこ)る者は功無く、功成る者は堕ち、名成る者は汚る。
自分のやったことを誇るものは何の功績も無いのと同じであり、功績を成し遂げた者はそこから落ちるしかなく、名声を得た者はそこから名声を汚していくしかないのである。
と。
孰能去功与名而還与衆人。
だれかよく、功と名を去りて還って衆人とともにせん。
功績も名声も自らのものとせず、大衆の中に紛れてしまうことができるような人は、この世界にどれほどいるであろうか。
そのような人が、「まことの成功者」なのでございます。
立派なことをしてもひとびとの称賛する場所におらず、功績をも名声をも求めず、
純純常常、乃比于狂、削迹捐勢、不為功名。
純純にして常常、すなわち狂に比し、迹を削して勢を捐(す)て、功名を為さず。
純朴にして平常な生活を送り、似ているものがあるとすれば世を捨てた奇人、過去の行為を消し、持っている力を捨てて、功績と名誉を求めない。
そうすれば・・・」
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ながながとしゃべってくだちゃりましてありがたいことでございまちゅが、二世肝冷斎は子どもなので夜が早いのでちゅ。今日は「中国名言集」みたいな本によく出てくる※の「直木まず伐られ、甘井まず竭く」の「名言」だけは覚えまして、眠いのでもう寝まちゅ。続きはまた明日―――!