平成23年10月10日(月) 目次へ 前回に戻る
(昨日の続き。「荘子・山木篇」より。)
任じじいは続けた。
「結論を申し上げますぞ。「まことの成功者」は
是故無責于人、人亦無責焉。至人不聞、子何喜哉。
この故に人に責むること無く、人また責むる無きなり。至人は聞せず、子、何ぞ喜ばんや。
このようであるから、他者に求めることが無く、また他者から求められることもないのです。至高のお方はその名を知られることさえない。あなたは(有名になられすぎて)どうして喜んでいることができましょうや」
これを聴いて、孔子は言うた。
善哉。
善いかな。
「すばらしい!」
そして、孔子は、「うひゃひゃ〜」と言いまして、
辞其交遊、去其弟子、逃于大沢、衣裘褐、食杼栗。
その交遊を辞し、その弟子を去り、大沢(だいたく)に逃れ、裘・褐(きゅう・かつ)を衣(き)、杼・栗(ちょ・りつ)を食らう。
その友人たちと交わりを絶ち、その弟子たちを解散させて、大いなる湿原に身を隠して、毛皮や麻製の原始的な服をまとい、とちの実やクリの実を拾って採集生活に入ったのであった。
ええー? 孔子様が、弟子を捨ててそんな生活に入っていたとは!
というだけでも驚くべきことですが、しかもその生活は「杼・栗」を食らっていた、というのである。これは華北、黄河流域でありえた暮らしぶりなのであろうか。
ちなみに、原始の生活が狩猟生活だと思い込んでいるひとはまだまだ多いと思いますが、江南〜西日本あたりの照葉樹林帯では「栗・杼」類の実の採集・食用化生活であった、という。荘周のこの記事は、最近の考古学的研究の成果が端なくも文字に遺された稀有な記録といえましょう。
孔子はそんな生活をしているうちに、ついに
入獣不乱群、入鳥不乱行。
獣に入るも群れを乱さず、鳥に入るも行を乱さず。
ケモノの群れに入っても(、ケモノたちは孔子を認識せず)群れを乱すことが無くなった。鳥の群れに入っても、鳥たちの群れを乱すことが無くなった。
というのである。
―――「なんでちゅって? 鳥やケモノの群れを乱すことさえ無くなった、とは・・・。ああ」
おいらは驚きを隠せません。思わず、感嘆の言葉を発した。
荘周、にやにやとしまして、
鳥獣不悪、而況人乎。
鳥獣すら悪(にく)まず、いわんや人をや。
「鳥やケモノたちさえ彼の存在を気にしなくなったのだ。ニンゲンどもなど論ずる必要もなかろう」
と言うたのであった。
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「ところで、荘周おじいたまあ」
とおいらは自分の話に納得してにやにやしている荘周に問いかけた。
「孔子が鳥やケモノと友だちになってしまう、というものすごいホラ・・・いや、寓話でちたが、この教えを守ると本当に「まことの成功者」になれるのでちゅか?」
「当たり前であろう」
「うひひー。それでは問いまちゅが、荘周おじいたまの寓言が大好きで、
矜名道不足。 名に矜(ほこ)らば道に足らざるなり。
適己物可忽。 己れに適(かな)えば物も忽(わす))るべきなり。
請附任公言、 請う、任公の言に附して、
終然謝夭伐。 終然として夭伐を謝(さ)らんことを。
名声を誇りに思おうとすれば、それはもうタオから離れてしまっているのだ。
自分にぴったりするのであれば、他者の存在は忘却されてしまうものだ。
(「荘子・山木篇」の)任老人の言葉どおりにして、
最終的に寿命の来ないうちに伐採されてしまうことのないようにしようではないか。
という詩(「赤石に遊び進みて海に帆す」)を書いた六朝の詩人・謝霊運はいったいどんな運命を送ることになってしまったでちょうか?」
「り、六朝? なんじゃ、それは。わしは紀元前四〜三世紀のニンゲンじゃ、そんな時代知らんぞ」
「うひひー、謝霊運はエラそうなことばかり言ってまわりを見くだしていたので、時の権力者の怒りを呼んで会稽に左遷されたのでちゅが、そこでも文句ばかり言っていたので、ついに捕らえられ、五十歳になる前に、棄市(死刑の上、死体遺棄)の酷刑に処せられてちまったのでちゅ。荘周じじいのホラ咄なんか聴いても何の役にも立ちませんねー」
「なんじゃとー!」
荘周じじいは怒って追いかけてまいりました。
「うひひー、じじいにつかまるほど老いぼれてはいまちぇんよー」
「ええーい、待てというにー」
以上。おちまい。
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今日は休日だった(なんで休み?え?国慶節だから?)ので、越生(←なんと読むでしょう?)というところに行ってきました。世界無名兵士の墓。太田道灌出生地?。関東最古如意輪観音像など。