季節が変わりかけのせいでしょうか、今週は久しぶりで頭が痛い日々を送っております。もうだめだ。
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子路が孔子に質問したんだそうです。子路は孔子の弟子とはいえ、十歳ぐらいしか年の違わないおっさんですが、ここでは弟子なので子供みたいな感じで訳しまちゅ。
君子亦有憂乎。
君子もまた憂い有りや。
「先生のような立派なひとでもイヤになることはあるものなのでちゅか」
孔子はお答えになられた。
無也。
無きなり。
「イヤになることは、ないのじゃ」
「ええー? こんなイヤな世の中に生きているのに、イヤになることは無いのでちゅかー?」
孔子はおっしゃった。
君子之修行也、其未得之、則楽其意、既得之、又楽其治。是以有終身之楽、無一日之憂。
君子の行いを修むるや、そのこれをいまだ得ざればその意を楽しみ、既にこれを得ればまたその治を楽しむ。ここを以て終身の楽ありて、一日の憂い無し。
「立派なニンゲンというのは、何かをしようというときに、その結果がまだ出ないうちはそのことの意義を考えてウキウキし、結果が出たあとはその結果をみてウキウキする。だから一生楽しくウキウキしているばかりで、わずかな間もイヤになることはないんじゃよ」
「そうなのでちゅか。ちゅごいでちゅねー」
「うむ。ところが、ダメなやつはまったく逆なんじゃよ」
「へー」
孔子はおっしゃった。
小人則不然。其未得也、患弗得之、既得之、又恐失之。是以有終身之憂、無一日之楽也。
小人はすなわち然らず。そのいまだ得ざるや、これを得ざるを患(うれ)い、既にこれを得るや、またこれを失うを恐る。是を以て終身の憂いあるも一日の楽無きなり。
「ダメなやつはダメなんじゃよ。何かの結果がまだ出ないうちは、結果が出ないのではないかとイヤになり、結果が出たあとはその結果が自分の手元から離れていくのではないかと思ってイヤになる。このため一生いつもイヤになっているばかりで、一日たりともウキウキすることはないのじゃ」
「えー! そんな人生イヤイヤ〜ん」
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以上、「孔子家語」巻五・在厄第二十より。なるほどな、とも思います。わしのようにいつもいつも「もうだめだ、もうだめだ」と言っているのはやはりダメなのだ、という気がします。しかしいつもいつもウキウキしているひともどうかと思われてなりません。