平成23年8月28日(日)  目次へ  前回に戻る

 

まず、昨日の(ア)については、「本体はどこにあるのか」という設問になっていましたので、答えを書いておきまちゅね。

―――二つに切れたミミズ、どちらに本体はあるのか?

尸居余気、両頭倶脱。

尸に余気居るのみ、両頭ともに脱す。

もう死んだ体に生気の余りが残っているだけで、どちら側からももう「本体」は脱け出しておるのだ。

うははー。そのまま「時事問題」に当てはめても答えになっとるのう。

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よっこらちょ、と。

では童子に戻りまちて、ステキなおはなちを一席。

安史の乱に唐軍に従軍して数々の戦功を立てた辛京杲(しん・けいこう)。今、鴻廬卿(外務大臣、全権大使)となっているその人の罪が奏上されてまいりました。

それによりますと、辛京杲は

以私杖殺部曲。

私を以て部曲を杖殺す。

私的な理由によって部下の者を杖で殴り殺した。

刑部の判決では

罪当死。(罪、死に当たる。)

というのである。

代宗皇帝、うむむと腕組みしたが、やがてため息とともに、

「刑部の判断に従うべきかのう・・・」

と口にした。

側らに控えておりましたのは、中書門下平章事(宰相)の李忠臣である。

李は皇帝の言葉を聴いて、

「御意」

と言い、さらに続けて、

京杲当死久矣。

京杲まさに死すべきこと、久しいかな。

「京杲のやつは、死ぬべきでございます。そう、ずいぶん以前から死ぬべきでございました」

皇帝はその語調の尋常でないのに振り向き、李忠臣も辛京杲もともに安史の乱の国難に従事した戦士上がりであったことを思い出しつつ、

「何か言いたいことがあるのか?」

と問うた。

忠臣曰く、

京杲諸父兄弟倶戦死、独京杲至今日尚存。故臣以為久当死。

京杲の諸父兄弟ともに戦死し、ひとり京杲のみ今日に至るもなお存す。故に、臣、以て死すべきこと久しとなせり。

「京杲の伯叔父、兄弟はすべて安史の乱に国家に忠誠を尽くして戦死いたしました。ところが、あの京杲だけはひとり今に至るまでおめおめと生き残っております。だから、やつがれは、やつはずいぶん以前から死ぬべきであった、と申し上げたのでございます」

代宗はまだ幼かったとはいえ、安史の乱のとき、父の粛宗皇帝とともに行宮を転々したひとである。

「わかった。いろいろ思い出したわ」

上惻然、乃左遷京杲。

上惻然として、すなわち京杲を左遷す。

皇帝は考えこみ、やがて決裁書に死罪を否認し、京杲を左遷するだけにとどめるよう記したのであった。

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人治主義社会でよかったですね。この話、おそらく唐書本伝に拠ると思うが、ここでは「智嚢全集」巻二十より引いた。

辛京杲はこのとき左金吾衛大将軍(近衛師団長)に遷され、その後、工部尚書(建設大臣)に昇進して、卒した。

ちなみに、このとき死罪をとどめるよう諫めた李忠臣ちゃんでちゅが、後に朱沘の乱に加わったとされて誅殺されたのでございまちゅよ。

まことに大宰府に行く途中に道真卿が仰せられけるとほり。

駅長驚クコト莫ケレ、身ノ浮沈ハコレ春秋ナリ。

(宿駅の長よ、わしがかような状況に陥ったといって驚くことはないぞ。出世したり落ちぶれたりするのは、春と秋が来るようにふつうのことなのじゃから。)

なのでござゐまする。

↑これも時事問題。

 

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