平成23年7月17日(日)  目次へ  前回に戻る

 

暑いですね。暑いときには滝でも見に行くかあ。

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飛竜直下三千尺―――。(これはなんだ? 銀色の龍が、天から三千尺もまっすぐ下ってきているのか!)

とうたわれました(李太白「観廬山瀑布」)る廬山・香炉峰の瀧を見よう、とわたしどもはやってきたのです。

「廬山の瀧を見るなら、黄巌寺の文殊塔から見下ろすのが一番じゃ」

と言われて、杖をつきながら登ってきたが、行く手の石段は折れ曲がり、彼方に真昼の陽炎ゆらゆら揺れ、暑熱の中を一歩一歩進む速度もどんどん遅くなってきた。

一行は

「ああ」「おお」

というため息ばかりつくようになり、疲労はなはだしく、

昏昏愁堕、一客眩、思返。

昏昏として愁堕し、一客眩し、返らんことを思う。

目の前が暗くなってきたようで、絶望し、ついに一人は目まいがして座り込み、

「もう帰ろうよう」

と言い出す始末。

「なんという弱気を言うのか!」

わたしは言うた。

恋躯惜命、何用遊山。且而与其死於牀第、熟若死於一片冷石也。

躯を恋い命を惜しまば、何ぞ遊山を用いん。まさにその牀第において死すると、一片の冷石において死するといずれぞや。

「この身体がいとしい、命が惜しい、そう思うならば何故名山を訪ねる旅になど出たのだ? おまえたちは、屋敷のベッドの上で死にたいのか、それとも冷たい石のしとねの上で倒れ死にたいのか?」

わたしの言葉は、山々に響いて、こだました。

―――しにたいのか? しにたいのか? たいのか? たいのか? のかのかのかのか・・・・・・

のかのか・・・が消えていきますと、静寂になった。なんとなく滑稽であった。

「わははははは」

友たちは大笑いし、

「よし、がんばろう」

と勇気を振り絞ってまた歩き始めたのであった。

・・・やがて黄巌寺についた。

少し休んでから、寺の前にある岩山に登った。そのいただきに文殊塔があるのだ。

塔の上から見下ろすと

瀑注青壁下、雷奔海立。

瀑は青壁の下に注ぎ、雷奔し海立せり。

瀧は青みがかった岩壁に沿って注ぎ下り、雷のように音はとどろき走り、まるで巨大な海が立ち上がろうとしているようであった。

滝底から吹き上がってくる風のせいですだれは捲れあがり、ばたばたと鳴った。

滝壺の水は東に引っ張られ、西に帯のように流れ、その姿を刻々と変える。

誰かが

此鮫人輸綃図也。

これ鮫人の綃を輸するの図ならん。

「あれは、南海の人魚が真珠の束を黄金に替えようと、地上のひとに示すサインではなかろうか」

とロマンスチークなことを言うたが、だれかが

得其色、然死水也。

その色を得たり、しかれども死水なり。

「たしかにそんな色合いだが、けれどこの水はここに澱んでいる水で、南海までつながっているはずがない」

とリアリスチークに打ち消した。

わたしは言うた、

「わしらはあれほど蒸し暑い道を疲れ果てて登ってきたが、いったんこの瀑布―――李太白が、蘇東坡が観たままのー――を見たとたん、体が二つに開かれ、そこから魂が飛び出したように自由になった。世界から自由になったのだ。目はさらに視力を増し、空はさらに晴れ渡って見えるではないか。そして、もやもやとしたこの胸の汚れたモノ、おまえさんたちと数年にわたって浄めようと努力してきて、今まで少しも浄まらなかったこのモノが、いま、どこかに逃げ去っていくのがわかる。これはー――」

わたしはみなをじろじろと見まわして、続けた。

是豈文字所得詮也。

これ、あに文字の詮するところならんか。

「これは、仕事のことや学問のことがフタをして閉じ込めていたのではないのか―――」

「やや」

「しかり」

「しかり」

とみな立ち上がって頷いた!

興奮しておりました。

そのとき、案内の僧が言葉をはさみまして、

「あの・・・

崖径多虎、宜早発。

崖の径(みち)に虎多し、よろしく早く発すべし。

このあたりの山道にはトラがよく出るのです。日が陰らないうちに早く下りないと・・・」

その言葉にわたしらは興奮が冷めまして、塔のある岩山から降りました。

わたしらはその日は帰宗寺に泊まり、翌日は白鹿洞を過ぎ、遠く五老峰を観、呉障山を越えて帰ったのであった。

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袁中郎「廬山観瀑記」(「晩明二十家小品」所収)より。

「孟子」の夜気の説を持ち出すまでもなく、

山川草木、悉有仏性。(「涅槃経」)

―――山や川のような大自然、草や木のような植物にも、もともと「ほとけ」の本質たる「真如」は宿っているのだ。

と申します。わしらの中にも「ほとけのこころ」はあるのでしょう。核燃料のようにあって、どくどくと「よいこころ」を発しているのでしょう。それを普段は「しごと」やら何やらが「格納容器」となって外に出てこないように塞いでいるのだ。もやもやが溜まるのは当たり前だ。しかし、ときどき出てくるのです。ほんとうの自分に還れると。

その上で問う、「そもさん」。

狗子還有仏性也。

狗子(くす)、また仏性有りや。

「このイヌころにも仏性はあるのですか?」

さあ、いかに答える? (・・・あんまりにも有名な公案なので、みなさんは御存じでしょうけどね。わしだけだろう、こんなことさえ勉強しなければわからないのは)

 

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