今日で一段といい年になったので覚悟のほどを示してみる。
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有士人貧甚。夜則露香祈天、益久不懈。一夕、方正襟焚香。
士人、貧甚だしき有り。夜にはすなわち露香して天に祈り、ますます久しく懈(おこた)らず。一夕、まさに襟を正して香を焚けり。
読書人階級のひとがあった。たいへん貧しいが、毎晩、お香を焚いて天をお祀りし、長い間一夜もサボることがなかった。その晩も、襟を整えてお香を焚き、祈りを捧げておったのじゃ。
すると、
忽聞空中神人語。
忽ち空中に神人の語を聞く。
突然、何も無い空間から神霊のお言葉が聞えてきたのである。
おお。
神霊がおっしゃられるには、
「天帝はおまえの誠実なのを不憫に思われ、わたしを使わして、おまえの欲しているものを問うてくるよう命じられたのだ。さあ、
汝何所欲。
なんじ、何の欲するところぞ。
おまえの欲しいものを何でもいいから言ってごらん」
さあて、みなさんなら何が欲しいとおっしゃいますかな?
・使いきれないおカネ?
・大きなおうち?
・あのひとのこころ?
・天下に赫々たるの美名?
・それとも天下そのもの?
―――読書人は平伏し、神霊に次のようにお答え申し上げた。
某之所欲甚微。但願此生衣食粗足、逍遥山間水浜、以終其身足矣。
某の欲するところは甚だ微なり。ただ願わくはこの生に衣食ほぼ足り、山間水浜を逍遥し、以てその身を終うれば足れり。
「わたくしめの欲しいものは大したものではございません。ただ、この人生に、着るもの・食べるものがだいたい十分あり、谷あいや水辺を散策して暮らすー――。そうやって老いを迎えることができれば、それ以上のものを望む気持ちはございません」
すると、神霊は、大いに困ったようであった。
此上界神仙之楽、汝何従得之。若求富貴則可矣。
これ上界の神仙の楽なり、なんじ何ぞよりてこれを得ん。もし富貴を求むればすなわち可なり。
「それは天上界の神仙たちの楽しみとするところじゃ。おまえたちがどうしてそれほどの快楽を得ることができようか。富みや地位を求めてくれ。それならば何とかできようほどに・・・」
―――ああ。
わたしは思う。
いにしえより多くの人が富貴を捨て、帰郷して自由に生きることを求めたが、その中でどれほどのひとが志を遂げることができたろうか。
天之靳惜清楽、百倍于功名爵禄也。
天の清楽を靳惜(きんせき)するは、功名爵禄より百倍すなり。
「靳」(キン)は馬に着ける「むながい」のことであるが、ここは「吝」(いやしむ、あるいは、おしむ、けちる)の意。
天は清らかに楽しむ運命を(人に下すのを)惜しむ。それに比べれば、成功の運命、名誉を得る運命、高位に至る運命、富を得る運命など、百倍もたやすく下されるものなのだ。
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「・・・・と、宋の費兗の「梁谿漫志」に書いてありましたのじゃ」
と明のひと、虞長孺は言うた。虞長孺、名は淳熙、字は徳園といい、浙江・銭塘のひとで、自ら長孺先生と号した。晩明の文人であるが、その人生は詳しくは伝わっていないが、一時期役所勤めをしていたらしい。
「はあ、そうなんですか」
「ところが・・・」
と先生は続けた。
此楽予近已得之。
この楽、予、近くすでにこれを得なり。
「もうすぐわしは、この「上界神仙の楽しみ」を得ることができそうなのじゃ」
「へー」
つまり、間もなく、役人を辞めて田舎に引っ込む、ということである。
「別に豪華な捧げものをしたり、祈りの言葉を使って神仙に引き上げていただくように願ったのではない。「神」というのは大地の精霊が「申」(伸びる)ことである。陽気に振る舞う精霊を「神」というのだ。「仙」とは「山の人」、山中に隠れるひとのことに過ぎない。されば、彼ら「神仙」に何を求めることができようか。わっはっはっはあ」
と先生は上機嫌である。
わしはちょっとイジワルしてみたくなって、質問しました。
「先生、
上界大多官府、即洞宮佐吏、正爾荘語粛儀、倍人間。
上界には官府大多にして、すなわち洞宮の佐吏、正にその荘語・粛儀は人間(じんかん)に倍せり。
天上界はこの宇宙の生成と維持をつかさどる場所と聴きますから、天帝のもと、その仕事をつかさどるお役所がたくさんあるはずです。洞・宮といった天の役所には、補佐官や書記たちがひしめいていて、荘重な言葉づかいと厳粛な立ち居振る舞いが求められるそうで、その厳正なこと、人間世界の比ではない、
といいますよ。御存じですか?」
「む、そうなのか」
先生は顔をしかめた。
「しかも、龍が住むという山、鳳が来るといわれる泉において、(仙界に生えるという植物)「禾」を食らい、(仙界の繊維である)「苧」で作られた不思議な服を着て、仙界を自由に行き来する者たちでさえ、天上界の労働に従事し、失敗をすれば天の牢に入れられ、なにものをも溶かすという欲火の中で焼かれるのだと申しますぞ。
大可怖畏。
大いに怖畏すべし。
なんとおそろしいことではございませんか。」
「うひゃひゃひゃー!」
先生は大笑いし、
「ああ、そうかもしれん、そうかもしれんのう。みな、自由の境に戻るときには不必要に恐れるものなのじゃ。
それでは、これから自由の境に帰るわしであるが、
書一通座右、自警貪志。
一通を書きて座右にし、自ら志を貪らんことを警(いまし)むるなり。
以上のことを一枚の紙に書きつけて、常に座る席に右側に置いておいて、隠逸の楽しみを楽しみ過ぎないように、自らいましめることにしよう」
「はあ」
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虞長孺「書座右」(座の右に書す)。
隠退することの重要性と、そのあとの自由な生活の素晴らしさを言い、怖気づかずにルビコンの河を渡れ、と励ましてくださっているのですよー。「晩明二十家小品」より。
わたくしも先生の後を追いまして、間もなく「上界神仙の楽しみ」に入る・・・はず・・・。もう一年ぐらい?・・・か?