平成23年6月17日(金)  目次へ  前回に戻る

 

「こんな話を突然されても困る・・・」というみなさんの顔が目の前に浮かびますが。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

今俗五聖、五顕、五通、五猖、五郎不分別矣。★

今の俗、五聖、五顕、五通、五猖、五郎を分別せざるなり。

ゲンダイのひとたちは、「五聖」と「五顕」と「五通」と「五猖」と「五郎」を別物だと考えていないのだ。

「は、はあ・・・。「五郎」というのだけわかります。「ノグチ」とか「ど根性ガエル」に出てきたのとか・・・」

そうではないのだ。

突然★を言いだしたのは、兪理初(1775〜1840)なのである。したがって、「今」すなわち「ゲンダイ」というのは、シナ近世の道光年間(1821〜50)のことであるのだ。

兪先生の言によれば、もともと、まず「五顕神」という神格の信仰が唐の時代に始まったのだという。

明の正徳十五年(1520)に詔していうに、この神は

唐称五聖、又称五顕。

唐に五聖と称し、また五顕と称す。

唐の時代に「五聖」という称号がはじまり、また「五顕」とも称された。

と。

続けて次のようにいう。

―――その後、北宋の宣和年間(1119〜25)に侯爵に封じられ、南宋の淳熙年間(1174〜89)には公爵に昇進した。さらに、嘉泰年間(1201〜04)には王とされた。

そして、理宗皇帝(在位1225〜64)のとき、それぞれに名前が贈られ、

・顕聡孚仁王

・顕明孚義王

・顕正孚智王

・顕直孚信王

・顕徳孚礼王

となったのである。・・・・・・・・・・・・・・・・・

これが「五顕神」。

この「五顕神」と同じ神格なのか相異するものなのか、一言に断ずることのできぬものに、

五郎神、五猖神、五通神

というのもいるのである。

「五郎」(五人のよいおとこ)というのは、明の太祖・洪武帝のときに戦死した勇士たちを五人づつまとめて祠に祀ったので、そのことが反映しているのではなかろうか。

あるいは、「五猖」については、明代の「儀礼・しきたり」を集成した「大明会典」第八十四

―――旗指物を立てて祭る神様が七柱ある。陣前神・陣後神・神祇五昌(の七柱)である。

とあって、当時、

為五行之神、又主猛暴、若蚩尤之列、但以猖為昌耳。

五行の神と為し、また猛暴に主たりて、蚩尤の列のごとく、ただ猖を以て昌と為すのみ。

(各季節の要素である)五行(木・火・土・金・水)の神だとされ、それぞれの季節に猛烈な力を発揮して災害や疫病を起こすことから、(古代の暴虐の神であり疫病神ともされる)蚩尤(しゆう)と同列に祀られたりしていて、「猖獗(をきわめる)」の「猖」の字を(縁起のよい)「昌」に変えただけではないだろうか。

あるいは、この五郎、五猖、五通は「妖妄」(あやかしのもの)だという説もある。(宋の洪容斎「夷堅志」には「五顕」についても「凶賊鬼(強盗殺人犯の霊魂)が形をとったもの」としている。)

宋代以来、

独脚五郎(五人で一本足の妖怪)、殺猖(殺しの精霊)、傷猖(傷害の精霊)、狂猖(発狂させる精霊)、風猖(感染する精霊)、牛通(ウシの怪)、猪通(ブタの怪)、馬通(ウマの怪)

などの妖怪の存在が伝えられているのである。ついに蘇州上方山の「五通神」が我が清の康熙年間(1662〜1722)に禁教にされてしまったのは、記憶にも新しい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

清・兪正燮、字・理初「癸巳存稿」巻十三より。

突然こんなことを言いだしたのは、わたくし、本日は、近世シナにおいて平和な民衆の生活が「五通」に破壊された怪異談をお話しようカナ、と思いましたのじゃ。しかし「五通」とは何ぞや、というのがなかなか分かってもらえまい、と思いましたので、いわゆる「前説」(マエセツ。事前説明)に兪先生の簡潔な解説を引用してみた次第。

だいたい、柳田國男師のお導きで「一国民俗学」の教えに帰依しておりますわたくしですが、「八幡さま」の背後に神」を疑ってみたりするほどの信仰心の弱さです。九州あたりの「五郎さま」は「御霊」ではなくてこの「五郎神」ではないかな、とも妄想ってみたりすることもある次第。

しかしながら、今日はここで力尽きました。「五通」のことはまた今度にいたしますの。

 

表紙へ  次へ