平成23年5月9日(月)  目次へ  前回に戻る

 

こだわるわけではないのですが、今日も「大学」を読む。

さて、「大学」の第一章第一節は

大学之道、在明明徳、在親民、在止於至善。知止而后能有定、定而后能静、静而后能安、安而后能慮、慮而后能得。物有本末、事有終始、知所先後則近道矣。

となっております

普通に読み下すと、

大学の道は明徳を明らかにするに在り、民に親しむに在り、至善に止まるに在り。止まるを知りてのちよく定まる有り、定まりてのちよく静かに、静かにしてのちよく安く、安くしてのちよく慮(おもんぱか)り、慮りてのちよく得。物に本末あり、事に終始あり、先後するところを知ればすなわち道に近し。

普通に訳してみますと、

(最高学府である)大学での教えのあり方は、ひとがもとから持っている明らかな徳を明らかにすること、人民に親しむこと、最高の善に止まってそこから離れないこと、(を目指す)にあります。

「止まる」ということがわかりますと、はじめて落ち着くことができ、落ち着いてはじめて平静であることができ、平静であってはじめて安定し、安定であってはじめて先々のことを考えるようになり、先々のことを考えてはじめて「最高の善」を得ることができる。

ものごとには根本と末端があるのです。ものごとには最初に行うべきことと最後に行うべきことがあるのです。何が先にやるべきことで、何が後でやるべきことか、それを知れば、どのように生きていけばいいのかだいたいわかるようになるものなのです。

と書いてあります。

このうち、

@   明徳を明らかにする

A   民に親しむ

B   至善に止まる

の三つを(朱子学では)「大学の三綱領」といいまして、この三つを行うことができればそれで「大学」の学問、すなわち「大人の學」は修了である。「止まるを知る・・・」以下はその学問には手をつけるべき順番があるよ、と言っているだけですから、これは方法論であってサブスタンスは「三綱領」に尽きるわけである。

よっしゃ、わかった! もうこれ以上「大学」の勉強はする必要はない!

・・・というわけにはいかないのです。

今ここに「ぽん」と煙が沸き、その中からじじいが一人現れて、

「ふほほ、

(1)「明徳」を「明らかにする」とはどういう行為ですかな?

(2)為政者にとって民に「親しむ」ことがなぜ「大学の道」になりうるのですかな?

(3)「至善」とはどういう状態ですかな?

さてさて、如何」

と問われましたら、あなたはどうこたえられますかな。

一応論点になるべき点を挙げてみます。

(1)「明徳」には、@いにしえの聖人のすばらしい徳のことである、A誰もが持っているすばらしい徳のことである、という二通りの解釈があり、それぞれに対応して「明らかにする」という行為は、@いにしえの聖人のすばらしい徳を「研究して明確にする」ことである、A誰もが持っているすばらしい徳を「外に向かって発現する」ことである、という説があります。(@伊藤仁斎、A通説)

(2)たとえば@王陽明などは「民に親しむ」というこの旧本の文字どおりに読み、「親しむ」行為の中に全人的な相互信頼感である「仁」の発現を読み取るのですが、A宋代の程伊川や朱子などは「大学」第二章でこの「親」に当たる語を「新」と読み替えて説明していることから、本来「民に親しむ」ではなく「民を新たにす」と書いてあったのだ、と解しています(文献学的にはA説の方が正しい)。とすれば、為政者が人民に親しむことが重要なのではなく、為政者が人民を機会あるごとに教え導き「新しいもの」にしていく、そのためには為政者自らも日々に努力をして「新しいもの」になっていかねばならない、という旧習を改める為政者の営為がここでは重視されているのだ、ということになろう。

(3)「至善」についても@精神的に充足した状態、A社会秩序が最高に安定した「聖王の支配」のもとにある状態、という二つの解釈があります(@通説、A「荀子」)。さらに朱子はB上の二綱領、すなわち明徳を明らかにすること、と民を新たにすること、これらは放っておくとすぐ錆びついてしまう。つねにこの二綱領について一番いい状態(「至善」)にあることが「大学の道」の最終目的なのだ、という説を打ち出しております。

以上の論点に触れながら、あなたの考えを述べてみてはいかがでしょうか。うまく論じられれば「科挙」に合格して、人民から為政者に移行できるかもよ。

 

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