平成22年11月12日(金)  目次へ  前回に戻る

なんでしたっけ。

ああ、そうだ、「回君伝」の続きである。

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・・・わたしは言葉を続けた。

「しかし、回君の飲み方はおまえさんたちと大違いだからな。彼が酒を飲もうとするときは、

如病得薬、

如猿得栗、

如久餓之馬、望水涯芳草、蹄足驕嘶、奔騰而往也。

病に薬を得る如く、猿の栗を得る如く、久しく餓うるの馬の、水涯の芳草を望みて蹄足し驕嘶し、奔騰して往くが如きなり。

病人がクスリを得たときのようだ。

サルがクリを得たときのようだ。

ずっと何も食べていなかった馬が、はるかの水辺にかおりよさそうな草を見つけて、足を踏み鳴らし興奮していななき、躍り上がって駆け出すときのようなのだ。

一心に酒に向かうばかりでそれ以外になにがあるかなど顧ることはない。その姿を見れば、こちらの手足も伸び、心は喜び暢びやかになる。

だから、わたしは毎日でも彼と飲みたがるのさ」

「ほほう」

そのひとは知ったように小さく頷き、

「そうかも知れんのう、そうかも知れんのう・・・、しかし、

蕩子不顧家、烏足取。

蕩子にして家を顧みず、いずくんぞ取るに足らん。

あそびほうけて「家」を壊してしまったのだぞ。どこに評価すべき点があるものか。」

と吐き捨てるように言った。

「家」の概念はもちろん封建チュウゴクと近代ニホンで同一視するわけには行きませんが、「家」といえば近代ニホンでは「サザエ」(敬称略)の世界だ。「サザエ」(敬称略)の世界を絶対視するやつがいたら、現代でも嗤われることであろう。

「あはははは」

わたしは、あざけるように嗤い、そのサザエ主義者に言うた、

回為一身、蕩去田産。君有田千頃、終日焦労、未及四十、鬚鬢已白。

回は一身のために田産を蕩去す。君は田千頃を有するも終日焦労し、いまだ四十に及ばずして鬚鬢すでに白し。

「回君は自分の身の快うしようとして、田んぼを売り財産を使い果たしてしまった。一方でおまえさんはどうなんだ? おまえさんは確かに十ヘクタールもの田んぼを所有して小作人も持っているさ。しかし、毎日毎日その経営に心身を疲れさせて、まだ四十前というのにヒゲも髪も真っ白じゃないか。

回不顧家、君不顧身。身与家孰親。回乃笑子、子反笑回耶。

回は家を顧みざるも、君は身を顧ざるなり。身と家といずれか親なるか。回はすなわち子を笑わんも、子は反って回を笑うか。

回くんは家を顧慮しなかったのだが、おまえさんは自分の心身を顧慮しなかったんだよ。「家」と「心身」と、どちらが大切なのかねえ? 回くんはおまえさんを嗤って当然だろうに、おまえさんの方が反対に回くんを嗤っているとはなあ。

ひゃあっはっはっはっはっは・・・」

彼――サザエ主義者――はもう何も言うことなく、顔をしかめてわたしの傍から去って行ったのだった。

とはいえ、回くんは、先祖伝来の家産を失っただけでなく、まだ財産を持っていた間に作っていた自分の家庭を壊してしまったのも確かである。

回くんには

有一妻一子。

一妻と一子あり。

まだ若いヨメさんと、幼い子どもがいたのだ。

ところが、彼は家に寄り付かない。酒を飲ませてくれるところがあればどこかの家に入り浸りになる。そして、どこかで日雇いなどして、

毎十日送柴米帰、至門大呼曰、柴米在此。

十日ごとに柴米を送り帰り、門に至りて大呼して曰く「柴米ここにあり」。

十日ぐらいに一回、薪と米を持って家の前まで来る。そして、門のところで大声で「薪と米はここに置いておくぞ」と呼ばう。

それから後をも見ずに逃げ出す。

「あんた、どこをほっつきあるいているんだね」

と女房があばら屋の中から飛び出してくるときには、

已去百歩外矣。

すでに百歩の外に去れり。

もうすでに百歩以上も離れているのである。

・・・そういえば、彼はいつも腰には小さな袋をぶらさげているが、その中は

常虚無一文。

常に虚にして一文も無し。

いつもからっぽで一文の銭も無い。

わたしは、回くんに訊ねてみる。

虚矣、何以為計。

虚なり、何を以て計を為さん。

「空っぽだね。どうやって暮らそうかね」

わたしもまた無一文だったのだ。

回くんは「ふふん」と鼻で笑い、

即至矣、即実。

即ち至れり、即ち実たさる。

「すぐ来るさ、すぐ空っぽじゃなくなる」

「そうかな」

わたしはまた言うた、

「そうだとしても、

未可用尽。

いまだ用い尽くすべからず。

使い切ってしまうわけにはいかんよな」

回くんはまた「ふふん」と鼻で笑うた、

若不用尽、必不来。

もし用い尽くさざれば、必ずや来たらず。

「使い切ってしまわなければ、次が来ないぞ」

「ほんとかね」

「ほんとだよ。

我自二十後、無立錐地、又不為商賈、然此嚢随尽随有。雖邑中遭水旱、人多饑焉、而予独如故。予自知天不絶我、故終不営。

我二十より後立錐の地無く、また商賈もなさざるに、しかるにこの嚢は随いて尽き、随いて有り。邑中に水旱に遭いて、人多く饑といえども、予ひとり故(もと)の如し。予自ら知る、天我を絶せず、故についに営まず。

わしは二十歳ごろからこちら、錐を立てるほどの土地も所有していない。かといって商売をするわけでもない。だが、この袋の中には銭があったり無かったりだ。郡では年々、水害があったり旱害があったりして、(土地所有している)ひとも多く餓えに苦しんでいるのを見る。ところが、わしだけはいつも、いつもどおりじゃ。そこでわしは確信した。お天道様はわしを死なせるつもりはないのだ、と。だからわしは何の定職も持たないことにしたのだ」

「はあ・・・」

わたしはその考えにさすがにびっくりしたが、しかしそのとおりであるので、

善。

よし。

「そうだよなあ」

と答えたのであった。

・・・その回君を不幸が襲った。・・・・・(続く)

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う〜ん、勉強になる言葉が満載ですね。袁小修「回君伝」より。あと一回で終わります。

 

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