平成22年9月20日(月) 目次へ 前回に戻る
昨晩は蒲田黒湯温泉に泊まり、今日は池上本門寺・同霊宝殿、
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ひとの家に雇われて耕作する者たち(「傭耕者」)、お昼の時間に雇い主から差し入れに干し肉が出た。
その中のひとり、中年の小柄な男が半分を残して自分の荷物と一緒に畑の傍らに置いた。
帰以遺阿母。
帰りて以て阿母に遺さん。
「持って帰っておっかあに食べさせてやるんだ」
「へー」
群傭相覰無言。
群傭、相覰(うかが)いて無言なり。
ほかの雇われ人たちは、お互いに顔を見合わせて、無言のままだった。
突然、中で一番若い少年の雇われ人が、
「それならおいらがいただくぜ」
と言うや否や、残してあった干し肉を手にして食べてしまったのである。
少年、悲しそうな面持ちの中年男に言うて曰く、
此肉乃主人労苦我輩、片胾少潤枯腸。而曰帰以遺母、而母当自奉養、鶏魚羊豕可勝市乎。
この肉すなわち主人の我輩を労苦し、片胾(へんし)にて枯腸を少潤せしめんとすなり。而(なんじ)曰く、「帰りて以て母に遺さん」と。なんじの母まさに自ら奉養すべく、鶏・魚・羊・豕、市に勝(た)うべけんや。
「この肉はお雇いくださったご主人さまが、おいらたちをこきつかいなさったあげく、これぽっちの肉片を配ってすかすかのはらの足しに下さったものなんだぜ。それなのにおまえさんは「家に持ち帰っておっかあに食わせてやりたい」という。おまえさんのおふくろさんにはおまえさんが自分で旨いものを食わせてやればいいじゃないか。ニワトリもウオもヒツジもブタも、市場では何でも売ってるぜ。」
あっはっはっはっは・・・。
衆皆笑之。
衆、みなこれを笑う。
雇われ人たちはみんな、これを聞いて大笑いしたのだった。
――――――ああ。
このわし、朴麗子が思いますに、親孝行というのはひとの大切な徳目である。
ところが、その親孝行をしようというひとを笑い飛ばしてしまうのだ。
払人情也。
人情を払うなり。
ひとのなさけにもとる、というべきであろう。
しかし、ひとのなさけにもとることでも止めることができない時がある。
潰乱不可勧也、盛怒不可折也。 ・・・・★
潰乱も勧むべからざるなり、盛怒も折るべかざるなり。
社会が崩壊していくときは、何とかしようとしても止めることができない。人心が爆発しようとするときは、どうやっても押し止めることができない。
――――――そうそう。わしが以前、夏の盛りの暑い日に村里を歩いておりましたら、
佃戸詈其郷。
佃戸の其の郷を詈(ののし)る。
小作人が、仲間うちを怒鳴りまくっている。
のを見かけましたのじゃ。
あんまりひどく怒鳴っているので、わしは
「いい加減にしなされ」
と間に入った。
しかしながら、
大怒狂悖不可当、余俯首去。
大怒して狂悖あたるべからず、余俯首して去る。
とにかく激怒して狂ったように暴れるのでどうしようもなく、わしは首をすくめて逃げ出しました始末。
思うに、
彼盛暑大労、気血奔放、吾言又値其盛怒、是吾之過也夫。
彼、盛暑大労、気血奔放し、吾が言またその盛怒に値(あ)う、これ吾の過ちなるかな。
彼はくそ暑い中で大いに働いて、気分も血液も逆流していたのだろう。わしの言葉がまたその怒りに真正面からぶつかってしまったのじゃ。まったくわしの過ちでしたな。
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わたくし(肝冷斎)思いますに、朴麗先生がほんとに言いたいことは★のところなんでしょうね。
朴麗子は本名を馬時芳といい、河南のひとで挙人(科挙の地方試験の合格者)として嘉慶・道光の時代(正確には1796〜1850)に各地で教官の任に就いたひとで、陽明学にかぶれていたという批判もあるそうであるが、その生平の見聞をもとに己れの社会に関する意見を記した「朴麗子」の著書は正続十九巻、光緒乙未年に出版されたものであるという。
このおもしろい本、わしが自分で見つけてきたのなら立派なものですが、偉大なる周作人先生が見つけて紹介しておられるものです(「秉燭談」(1940上海)より)のでわしの手柄はつたないニホン語に直したことぐらいですの。