俗に言う、
南人不夢駞、北人不夢象。
南人は駞(ダ)を夢みず、北人は象を夢みず。
南方のひとはらくだの夢を見ない。北方のひとは象の夢を見ない。
と。
らくだは北方(沙漠の地)にしかおらず、南方のひとはそれを見たことがない。見たことのないものは夢に見ることがない。南方の動物である象を北方のひとは見たことがないから、同様に北方のひとが象を夢に見ることもない。ひとが夢に見るのは過去に見たことのあるものだけである。
のである。
元末(明初)の葉子奇はかなり科学的なひとであったらしく、これはすなわち
寤則神舎於目、寐則神棲於心。蓋目之所見、則為心之所想。
寤(さ)むれば神は目に舎(やど)り、寐(いぬ)れば神は心に棲む。けだし、目の見るところ、すなわち心の想うところなり。
起きているとき、精神は目に存在している。眠っているときは、精神は心に存在する。だから、昼間目で見たものが、夜に心の夢想するものになるのである。
と解説しています。(「草木子」巻二下)
ああ、なるほど。
納得ですね。
ところで、睡眠時に見る「夢」だけでなく、「人生の夢」においても同じことではござりますまいか。ひとはこれまでに見たり聞いたりした境遇にはあこがれるものだが、見たことも聞いたこともない境遇にはあこがれることさえできるはずがないのではなかろうか。目の前のしあわせに安住できれば、みなそれでしあわせなのである。実は、そこにしかしあわせは無いのである。