平成22年8月19日(木) 目次へ 前回に戻る
暑い。今日もムシムシに暑かった。
天変地異があるのではないか。というか、すでにこの暑さが天変地異というべきか。
天変地異といえば、石が降る、というタイプの天変地異(この場合は天変)がありました。ご興味のある読者のために、ここでは、明の宣徳庚戌年(1430)の例を見てみよう。
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三月十五日、陝西・慶陽府にて、
殞石如雨。
殞石(いんせき)雨ふるが如し。
石が雨のように落ちてきた。
「殞」(イン)は「おちる」の意。
大者四五斤、小者二三斤。
大なるものは四五斤、小なるものは二三斤なり。
大きいものは2.4〜3.0s、小さいものは1.2〜1.8sあった。
一斤は約600グラム。
撃死人以万計、一城之人、皆竄他所。
撃死するひと万を以て計(かぞ)え、一城のひと、みな他所に竄す。
石に打たれて死ぬひとが何万人も出、都市の生き残りはみな他のところに避難したのだった。
大災害であった。
ところで、このとき、もう一つ不思議なことが起こったのだ。
石又能言。
石、またよくもの言う。
(これらの石の中に)言葉を発する石があったのである。
その石の言葉は、
甚可駭聴、奏止云説長道短而已。
甚だ駭聴すべきも、奏して「長を説き短を道(い)うのみ」と云うに止まる。
聴いてたいへん驚く内容があったのだそうだが、皇帝には「(社会の)よい点と悪い点について発言があった」とのみ上奏されるに止まった。
そうである。
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明・夢蘇道人・王リ「寓圃雑記」巻十より。
この石は20世紀に地球から発出されたメッセンジャー号の「向こうから版」で(あるいは2001年宇宙の旅の「モノリス」でもいいのですが)、その言葉は宇宙からの大切なメッセージだったかも知れません。かも知れません、ではなく、おそらく確実にそうでしょう。ああ惜しいことをしました。
「石が降ってくる」という事件は古来多いので、多くは宇宙からの「隕石」ではなくて「天狗つぶて」のようなポルターガイスト現象の大規模なものと考えるのが科学的(←ほんとに?)かも知れないと思うぐらいですが、石がもの言うことの方もそれほど珍しいわけではない。
特に有名なのは、「春秋左氏伝」に記された昭公八年(紀元前534)の事件である。
春、石言于晋魏楡。
春、石、晋の魏楡においてもの言う。
この年の春、晋の魏楡の地において、石が言葉を発する事件があった。
晋侯が(盲目の白魔術士である)師嚝に訊ねた。
「石は何故にもの言うたのであろうか」
師嚝、答えていう、
石不能言。
石はもの言うあたわず。
「はあ? 石が言葉を発することは、できませんなあ。」
「そ、そうか・・・。それではいったい・・・」
師嚝答えていう、
或憑焉。不然、民聴濫也。
あるいは憑せるか。しからずんば、民、濫りに聴くなり。
「もしかしたら何かが憑いたのではございませんかな。そうでなければ、(それを聴いたという)人民たちが聞こえないことを聴いたのかも知れませぬ」
「そ、そうか・・・」
めんどくさくなってきたので、ここからは現代語訳だけで示します。
「あるいは、いまひとつ可能性がございます。
これは、わたくしがわたくしの師匠から聞き伝えたところでございますが、土木工事がしかるべき季節に行われないとき、怨みの思いが民草に起こり、言葉を発することのできぬものが言葉を発することがある、と。今、侯の宮殿は立派に過ぎませんでしょうか。人民の力を搾り出しすぎておりますまいか。もしそんなことがあるなら、民草の怨みの思いが並び起こり、物質の性質さえ変えてしまう場合があるのでございます。その場合には、
石言不亦宜乎。
石のもの言うもまたむべならずや。
石が言葉を発したとしても、おかしなこととは言い切れますまい」
「む、むむむ・・・」
ちょうど晋侯は宮殿の増築を行っていたところであったのだ。・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・云々。このあと、この事件を評した叔向の言葉があり、君子の言は信にして徴あり云々という名言があります。・・・が、人民の怨嗟の声さえ聴かぬ為政者やせれぶ者を賞賛するこの社会でございます。わたくしごときが「わたしの言葉を聴け」というのはあまりにもをこがましい要求とも思えてまいりましたので、今日の講話はここまでとさせていただき、わたくしは、「石がもの言うことは決して珍しいことではございませぬ。我が国でも間もなく起こることのようにも思われます。ああ、これ以上語りますまい、何を語ることがありましょうか」とだけ言うて、口を閉ざすのでございます。