平成22年7月14日(水) 目次へ 前回に戻る
くだらん話をいたします。
明の代、沈浩というひとは漁師であったが、州の吏胥と結託して法を曲げ、良い漁場を手にいれてしまった。
嘉靖戊子の年(1528)の夏の暑い盛りのある日のこと。
沈浩の家では、釣ってきた二匹の魚を開いて二つに割り、四切れにして煮込んでいた。
烹将食之、其魚湧躍出盤者三、隣里来観猶自蜿蜒。
烹てまさにこれを食わんとするに、その魚、湧躍して盤を出ること三たび、隣里来て観るになお自ずから蜿蜒たり。
煮込んで、さてこれを(家族で)食べようと皿に移した後で、その魚は跳ね上がってお皿から飛び出した。二度、三度と同じことを繰り返した。「切って煮られた魚が跳ね上がるとは珍しい」と隣近所のひとが見物に来たが、そのときにもまだうねうねとのたくっていたそうである。
しかし、沈浩はまだうねくっている魚に箸をつけ、
「何か問題でもあるのか」
と食べてしまった。
その後、一ヶ月もしないうちに沈浩は、寄り合いからの帰り道に行方不明となり、翌朝村はずれの道端で死体になって発見された。水利の禍(漁業権の争いの怨恨による被害)をうけたのであろう、とみなうわさしあったものである。
また、その息子も翌年には死んでしまった。
豈非天仮魚以兆之耶。
豈に天の魚を仮りて以てこれを兆すにはあらざるや。
天が、魚の不思議な振る舞いにかこつけて、不幸のあることを報せていたのではないだろうか。
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「七修類稿」巻四十八より。
「く、くだらん! 偶然に決まっておるだろうが!」
とお怒りになる前に、
「やはり強欲だとヤラれるのだなあ。何事もほどほどにせねばならんなあ」
と反省することが必要でしょう。
門内有君子、門外君子至。
門内に君子有れば、門外に君子至る。
立派なひとがおられる家には、立派なひとが訪ねて来るものじゃ。
と申しますでな(「警世通言」巻一。「類は友を呼ぶ」)。大人しくしておるに若くものはないのですじゃよ。