今日は暑かった。あんまり暑いので古代に紛れ込んでしまったようで、古代の学校(メンズ・ハウス)に着いてしまいましたので、授業を覗いてみます。
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まず大先生が
「ああー、ありがたや、ありがたや、精霊さまよー」
と唱えてからおっしゃいますことには、
鬼神之為徳、其盛矣乎。
鬼神の徳たるや、それ盛んなるかな。
精霊の霊力というのはたいへんなものであるのう。
「ああー、ありがたや、ありがたや、精霊さまよー」
視之而弗見、聴之而弗聞、体物而不可遺。
これを視れども見えず、これを聴けども聞こえず、物に体して遺すべからず。
それを視ようと思ってじろじろ視ても見えないし、聴こうと思って耳をすましても聞こえない、けれど、それはあらゆる物を活性化してくださる。
「ああー、ありがたや、ありがたや、精霊さまよー」
使天下之人、斉明盛服以承祭祀、洋洋乎如在其上如在其左右。
天下のひとをして、斉明盛服して以て祭祀を承け、洋洋乎としてその上にあるが如く、その左右にあるが如からしむ。
世界中のひとは、みな清潔に盛装して精霊のおまつりをする。その場にはそれは流れるように充満して、ひとびとは自分たちの上に浮かんでいるようにも感じるし、自分たちの左右に動いているようにも感じることになるのである。
「ああー、ありがたや、ありがたや、精霊さまよー」
詩経・大雅・抑篇にかくいう、
神之格思、不可度思、矧可射思。
神の格(いた)るや、度(はか)るべからず、いわんや射(いと)うべけんや。
神霊さまがお見えになるときは、ああ、推測できない、ああ、それなのにいやがることなどできようか、ああ。
「思」は語辞で、格段の意味はないのである。
夫微之顕誠之不可揜如此夫。
それ、微の顕かなる、誠の揜(おお)うべからざる、かくの如きかな。
ああ。見にくいものがはっきりして、真実が隠せなくなる、というのはこういうこと(精霊のはたらきが感じられること)なのじゃ。
これは「中庸・鬼神章」の講義でした。
メンズ・クラブのひとびとはみなで「ああー、ありがたや、ありがたや、精霊さまよー」の唱えごとを三回繰り返した後、
「ありがたいですなあ」「まったくですなあ」「精霊はおりますからなあ」
と話し合っていた。
・・・・そこへ、どやどやと三人組の男が入ってきました。
三人は、
「なんという原始的な解釈ですか」
「みなさん、しっかりしてください」
「精霊などいないのですから」
と言うのである。
「お、おまえさんらは何者じゃ?」
「われらは宋の時代からやってきた三人の儒学者です。わしが程伊川、こちらが張横渠、そちらのが朱晦庵じゃ」
「わしらは「鬼神」について以下のように考えており申す」
程伊川:「鬼神」というのは天地のはたらきであり、造化の結果である。
張横渠:「鬼神」というのは二気(「陰」と「陽」)の正当な動きである。
朱晦庵:二気の面から見れば、「鬼」というのは「陰」の精、「神」というのは「陽」の精のことである。気を一つ塊と見た場合には、ぶいぶいと伸びていくときが「神」であり、戻って帰ってくるときが「鬼」である。「伸」(シン)=「神」、「帰」(キ)=「鬼」というわけじゃ。「鬼神」は「鬼」と「神」の二つのものなのではない。実は一物なのである。
「いかがでしょうか、おいらたちの解釈は」
「かなりクールでしょう」
「要するに「鬼神」と書いて「ゆうれい」とか「こびとみたいな精霊」のことだと信じているやつはバカだ、ということです。「鬼神」という古人の言葉は科学的な言葉のはずです。そうではないのですかな」
古代のメンズ・クラブのみなさんは
「う〜ん、どうかなあ」
「科学的なのはいいことのような気がするけど、間違っていることが多いからなあ」
「霊的なものは絶対いるからなあ」
と腕組みして、考えこんでしまいました。
・・・・わたしはそろそろ家に帰って寝ることにします。明日がくるので・・・。