平成22年6月10日(木) 目次へ 前回に戻る
宋の時代のこと。
章兪というひと、七十歳のお祝いに親戚や知り合いを呼んでうたげを催した。
そのとき、ミカンを手土産に持ってきたひとがあった。
味甘而実極瑰大。
味甘くして実、極めて瑰大(かいだい)なり。
味は甘く、実はたいへん大きいミカンであった。
これを押し頂いて食らうた章兪は、
「これはたいへん美味い。自分の家で毎年食べたいものじゃ」
と言いまして、家人に、
令収核、種之後圃。
核を収めしめ、これを後圃に種(う)う。
「タネをしまっておいて、後で裏庭に植えておいてくれ」
と命じたのであった。
席上それを聞いてひそかに笑うものが七八人もいたという。
けだし、蘇東坡に
自笑先生今白髪、 自ら笑う、先生いま白髪にして、
道傍親種両株柑。 道傍に親しく両株の柑を種(う)うるを。
自分でもお笑いである、この先生(自分のこと)はもう白髪頭になっておるというのに、
道端に手ずから二本のミカンの苗を植えようというのじゃからなあ。
の句があるのを知っていたからである。(「恵州白鶴峯、梁を上ぐの文」)
このとき蘇東坡は六十三歳であった。それなのに実をつけるまで十年以上かかるというミカンを植える、自らはそれを食べることはできないだろう、というて自嘲する句であり、実際、東坡はその後数年ならずして亡くなった。
―――ところが章兪どのはもう七十だというのに、これからミカンを植えるといわれる。
―――ご自分がいつまでお生きになる気なのかねえ・・・。くっくっく・・・。
という笑いであったのだ。
しかしながら、
後公食柑十年而終。
後、公、柑を食らうこと十年にして終わる。
その後、章老人は、裏庭のミカンが育って実を成らすようになってから、亡くなるまで十年間、毎年生り物を食べたのである。
笑っていた者たちの中には章老人より先に亡くなった者も何人かあったそうな・・・。
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散文的にいえば、九十歳ぐらいまで生きた、ということです。宋・何子遠「春渚紀聞」より。
おもてしごと追い詰められております。また、さっき(23時半ごろ)まで野球やっているひとたちがいたらしいのでびっくりした。宋の時代の「柑」とゲンダイのミカンとの関係を調べてみようかと思ったが止めた。辞めてからにします。まもなくなので。長生きするには愚か者どもとは付き合わないのがよい。