赤い花咲いた白い花咲いた黒い花落ちた
週末です。
今、チャーリー・パーカーを聴いている。ごろごろしながら「草木子」を読んで、とても寛いでいます。ごろん。宮崎やらギリシアやら徳之島やらみなさんたいへんですなあ。ごろん。わしはラクでうれしいなあ。ああ、帝の力がどこにあろうか云々。
「草木子」は明の葉子奇の著作で、元の諸制度についての貴重な記録や元の末から明の初めにかけての事件の風聞、北宋の邵康節の自然哲学に基づいた天文地理学や生物学に関する記述など、意外とおもしろいことが書かれている本です。
著者の葉子奇というひとは字を世傑、号を静斎先生といい、元末に浙江・龍泉にあって、青田の劉基、浦江の宋濂と並び称された碩学であったが、あとの二人が明の建国の功臣として洪武帝に重用されたのに対し、静斎先生は乗り遅れたクチで、巴陵県主簿(庶務課長)になったものの、洪武十一年(1378)に事に坐して獄に下され(後に赦されて郷里に帰って隠棲した)た。その在獄中に書き始めたのがこの貴重な随筆(メモ集)で、
幽憂於獄、恐一旦身先朝露、与草木同腐。(自序)
獄において幽憂し、一旦身の朝露に先んじ、草木と同じく腐らんことを恐る。
獄中では、ある朝突然に朝露よりもはかなく(殺され)草木と同じように精神無きもの(死体)となって腐っていくのか、とたいへん悩み苦しんだ。
ことから、自らを「草木子」(「植物先生」)と名づけ、また書名ともしたのであるという。
いやあ、それはたいへんでしたなあ。ごろん。わしはぶちこまれもせずに暮らしていてラクでうれしいなあ。
どういうところが「寛げる」かといいますと、同書中から、例えば、元末の韓山童の叛乱についての記述を少し拾ってみますのでみなさんも味わってみてください。
1.叛乱の温床
もともと至正年間に天下が治まっていたころ、参議の賈魯という者、何とかして功名を立てて出世しようと、丞相の脱脱をそそのかして黄河の北の地を開いて水田にせんことを企てた。脱脱はその企画に賛同し、十数万錠という大金(数兆円になりましょうか)を費やして用水路を作り田を潤すことに成功したが、この用水路が氾濫して北京の都まで水没しそうになったことから開発は中止された。この際、財政上の措置として「至正交鈔」という紙幣を発行したが、この紙質が悪く、すぐに腐乱してしまって後で金銀貨に兌換しようとしたときには紙幣の真贋が見分けられなくなってしまい、ついにそれ以前から流通していた「至元宝鈔」も含めて紙幣の流通を混乱させてしまった。物価は騰貴し、不正が行われ、貧富の差が甚だしくなり、人民の中に不穏の空気が起こりはじめたのである。
2.石人の予言
そんなとき、黄河が南に向けて決壊した。賈魯は脱脱に、超古代の夏の時代の河道を開いて治水すべきだとの意見を述べ、自ら治河使の任に就き、二十六万人もの人夫を徴発して工事に従事させたのだが、朝廷から支給される食料や賃金は官吏が多くピンハネしてしまって規定どおりの給与がなされず、人夫たちの不満が高まっていたのであった。
この人夫たちの中に韓山童という者がおり、その仲間たちと語らって、
陰鑿石人、止開一眼、鐫其背曰、莫道石人一隻眼、此物一出天下反。預当開河道埋之。
陰に石人を鑿(うが)ち、ただ一眼を開きて、その背に鐫(ほ)りて曰く、
道(い)うなかれ、石人一隻眼、と。この物一たび出づれば天下反す。
預(あらか)じめ開河の道に当たりてこれを埋づむ。
こっそり石像を刻み、わざわざ片目にしておいて、その背中に次の二行を彫りこんでおいた。
この石のひとは、片目しかないが、そのことの意味を考えてみよ。
この石のひとが掘り出されたなら、そのときこそ閉塞した天下があちこちで開かれることとなろう。
この予言を彫り込んだ石像を、黄河の河道として掘られることになっている場所にあらかじめ埋めておいたのだ。
人夫たちはこの像を掘り出した。
その背中の不気味な予言を見て、官吏たちはすぐにそれをどこかに運び去ってしまったが、人夫たちの中にも文字の読める者は多い。よくよく見れば近年に作られた石像だとわかったかも知れぬが、すぐに持ち去られたために人夫たちはその石像の予言がたいへん古いものだと逆に信じ込み、うわさがうわさを呼んで、ついに叛乱が起こったのである。
3.韓山童の偽詔
叛乱後数ヶ月ほどで数万人の軍を率いるに至った韓山童は、宋の徽宗皇帝の九世の孫だと名乗り、詔を降して曰く、
蘊玉璽於海東、取精兵於日本。
玉璽を海東に蘊(つ)み、精兵を日本に取る。
皇帝の玉璽は東海の東(の日本)から探し出し、精兵は日本から連れてきたのだ。
と宣言したのであった。
けだし、宋の最後の皇帝は南海の崖山で敗死したが、その際丞相の陳宜中は玉璽を託されて日本に向かい、元寇に抵抗していた日本政府に迎えられたのだ、という伝説があり、この説に託して天下を動揺せしめたのである。
4.叛乱の継続
韓山童の鎮圧された後も、その子を擁する一派が安徽から山東にかけてを荒らしまわり、ついに汴(べん。開封)を陥落せしめて、国号を宋と定め、龍鳳元年と年号を定めた。このとき、一軍を率いて各地を掠奪したものの中に劉太保なる者があり、この劉の部隊は進軍に当たって補給を要しなかった。なぜなら
毎一城、以人為糧食。人既尽、復陥一処。故其所過、赤地千里。大抵山東河北山西両淮悉為残破。
一城ごとに、人を以て糧食と為せばなり。人既に尽きれば、また一処を陥す。ゆえにその過ぐるところ赤地千里なり。大抵、山東・河北・山西・両淮ことごとく残破と為る。
一の都市を陥落させるごとに、その都市の市民を食糧として食ったからである。市民を全部食べてしまうと、次の都市に向かうのである。ためにこの部隊が過ぎた後は、千里の間、何一つ無い状態になるのであった。山東から河北、山西、淮北・淮南にわたって多くの町が、この部隊の掠奪を受けて全滅した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ちょっと疲れてきました。
が、こういう記事を読むにつれ、なんとも平和な時代にごろんごろんしている己れのシアワセを感じ、「寛いで」いるのでございます。みなさんも「寛いで」きませんか。まさか、同じようなことがこの国にもこれから起こりそうなぐらい、現在の為政者は統治能力を失っていてアレである、などと心配しているようなルーピーなひとはいますまいねー。
ちなみに劉太保は後、明初に重く用いられた「建国の功臣」の一人でもある。もちろん太祖・洪武帝によってぶちゅっとされてしまいましたがね・・・。