乾隆乙未年(1775)の八月のことであった。
わたし(←著者の銭泳)がまだ少年時代、母方の叔父である呉鏡江どのと虎丘見物に出かけたとき、寺院中の鉄華巌という巨岩の上に生えていた大きな楓の樹の節穴から烟が噴き出している、と行楽客たちが騒ぎ出したことがあった。
叔父とわたしも、他のひとたちとともに見物していると、やがて
有火心爆出。
火心爆出するあり。
木の中から(烟のもととなっていた)本体の火が激しく噴き出すに至った。
寺の僧たちがポンプで放水して類焼を食い止めたのだが、巨岩の上にある木である。人が火を点けることは不可能で、どうしてあんなことが起こったのだろうか、木が自然に発火したのであろうか、と、帰宅してから叔父と首をひねっていると、
家君曰、木能生火、此理之常、何異為。
家君曰く、「木よく火を生ず、これ理の常なり、何の異と為さん。」
わしの親父が聞きつけて、
「木が火を生ずるのは理の当然ではないか。どこがおかしいのか」
と言うた。
シナの古代からの物質生成論である「五行理論」によれば、木・火・土・金・水の五元素は、お互いを
木→火→土→金→水→木→・・・・
の順に生み出していく、とされています(「五行相生」)ので、親父が「理の当然」と言っているのは、この「木→火」の矢印のことを言っております。
さらに親父が言うには、
「四、五十年前の雍正年間(1723〜35)のことじゃが、東楊巷の裏は一面の沼であったが、
一夕有火光甚盛。
一夕、火光の甚だ盛んなる有り。
ある晩、その沼に盛んに燃えている炎と思しき光が浮んでいたことがあった。
土地の素封家であった王氏は、強盗団の舟が火を焚きながら襲来してきているのではないかと疑い、
令家人備器械、鼓躁而前。
家人をして器械を備え、鼓躁して前(すす)めしむ。
家の子郎党を総動員して武装させ、太鼓を騒がしく鳴らして迎え撃つため、その火光の方に進撃させた。
ところが、
並無一舟、但見火浮水面而已。
並びに一舟無く、ただ火の水面に浮ぶを見るのみ。
どこにも一艘の舟も無かった。彼らの目に見えたのは、火が水面に直接浮んでいる姿ばかりだったのだ。」
「へー」
と叔父とわしが驚いていると、親父は言う、
「つまり、
観此、則知水亦能生火也。
これを観れば、すなわち水もまたよく火を生じることを知るなり。
このことからすれば、水が火を生み出す、ということだってあることがわかる。
水さえそうなのだから、理論どおりに木が火を生み出す、というのが不思議でも何でも無いことがわかるであろう」
と。
今思うと懐かしいことである。
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清・銭泳「履園叢話」十四より。著者は1830年代(アヘン戦争の直前ですね)にこの書を書いておりますので、叔父や親父との会話は、もう60年ほど前の懐かしい思い出なわけです。
火はどこから生じるか、なかなか予測が立たないものなので、気をつけねばなりません。比喩的な意味でも気をつけねばなりませんが、物理的にも子どもの手の届くところにライターを置いておいてはいけません(←詳しくは「岡本全勝のページ」を参照のこと)。また、強盗団にも気をつけねばなりません。
なお、出てくる地名はみな江蘇・無錫のあたりである。