平成22年3月14日(日)  目次へ  前回に戻る

孫道人(「道人」は道士の尊称)はいずれの生まれのひとか知らないが、南宋のはじめごろには浙江・巌州の天慶観という道観(道教のお寺)に住持していた。たいへん物腰の柔らかなひとなのだが、何ということも無い言の葉の中に世の中の行く末や人の禍い・幸福を予言することがあり、後になって「ああこのことだったか」と思い合わさせられることが多かった。

さて、紹興三年(1133)三月三日の上巳節の当日のことである。

この日は節句の日ということで、どこの道観も信徒たちでにぎわうのであるが、天慶観にも読書人や庶民数百人が集まった。

そのひとびとを前にして、道人は本堂に端坐し、両手を胸の前でそろえて告げて言うた。

「ひひひ・・・。みなさま、少し耳を澄ませてわしの言葉を聞いてくだされ」

道人のありがたい言葉である。みな静かに耳を澄ませた。

「わしは今年で九十歳になりまする。長い間この道観に住持し、土地のみなさまのお世話になってきたのじゃが、

暫当小別、各勉力事善。

しばらくまさに小別をなすべし、おのおの善を事として勉力せよ。

しばらくのお別れをさせていただきまする。みなさん、それぞれに善事をなすように努力してくだされませよ」

「何をおっしゃるのですか、道人さま・・・」

とみなが口に出す前、

言訖坐逝。

言訖(お)わるに坐して逝けり。

言葉が終わったときにはもう、座ったまま死んでいた。

のであった。

―――さすがに見事な死に方じゃ。

ひとびとは驚愕するとともに感じ入ったのであった。

このひと、いま少し若いころには、

袖中畜十数白鼠子。

袖中に十数の白鼠子を畜(たくわ)う。

袖の中に十数匹の白ネズミを飼っていた。

宴会の席などに現われて、

酒酣出鼠。

酒たけなわにして鼠を出だす。

みなが酒に酔うたころ、袖の中からネズミを出すのだ。

人欲捕取、即走投袖中、了無見也。

ひと、捕取せんとするに、即ち走りて袖中に投じ、了と見る無きなり。

席中のひとがこのネズミを捕まえようとすると、こいつらは走って道人の袖の中に逃げ込む。そこでひとびとが道人の袖の中を見せてもらっても、もうどこにもいないのだった。

あるいは市中の酒楼でひとと対酌(差し向かいで飲むこと)したとき、

就酒家市一小尊、酌之不竭。

酒家に就きて一小尊を市(か)い、これを酌めば竭(つ)きず。

酒楼で小さな爵を一杯だけ頼み、これを酌みあったところ、いくら飲んでも無くならなかった。

「尊」は酒を小分けするための酒器。「お銚子」である。

人告酒困、即覆尊而去。

ひと酒困を告ぐるに、即ち尊を覆して去る。

相手が「酔っ払いました。もう飲めません」と告げるまで飲むと、爵をくるりと引っくり返した。(もう一滴も残っていなかったのである)

そして、「ひひひ」と笑うてひとりで帰って行ってしまった。

と思うと、

「ひひひ」

と朝からやってきて、夕方まで何一つ注文せずに店の隅っこでじっとしていることもある。

どういうわけか、

酒家是日必大售。

酒家この日必ず大いに售(しゅう)す。

酒楼はその日は必ず大繁盛するのである。

―――まことに不思議なひとであった。

ひとびとは彼の亡骸を城南郊外に埋葬し、粘土で彼の像を造ると、道観の中に祀ったのであった。

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その翌年の春先のことだ。

一人の商人が堅く封印された書状を一通持って、天慶観に現れた。

「わたくしは四川・成都の某という商人でございますが、昨年の三月三日、成都の道観にお詣りした際、その道観ではそれまで一度もお見かけしたことのなかった老道士に声をかけられました。

老道士は、

我始自巌州来、知子不久回浙。幸為我達於巌州天慶観、尋孫道人付之也。

我、はじめて巌州より来たれり、子の久しからずして浙に回するを知る。幸いに我がために巌州天慶観に達し、孫道人を尋ねてこれを付せよ。

「わしは最近、巌州から来た者ですじゃ。おまえさんはそのうちに浙江に行かれると見た。わしのために巌州の天慶観という道観まで行き、この書状を孫道人というひとにお届けくだされませんかのう」

とおっしゃいましたのです」

そう言うて、商人は道観の後を継いでいた道士に書状を差し出したのである。

「残念ながら孫道人は昨年のまさにその日に亡くなりましてのう・・・。今は奥のお堂に道人の粘土の像が祀ってありますわい」

と道士は答えた。

「なんと・・・。そうでしたか。これも何かのご縁だ、その像を拝ませてください」

「では、こちらへ・・・」

道士は商人を奥の堂に案内するとともに、成都の道観で預かったという孫道人あての書状の封印を外して、

「これも道人の像の前にお捧げすれば供養になりましょう」

と中の手紙を開いた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・

うひゃあ!!!

と、商人と道士と、叫んだのは、同時であった。

「ど、道士どの、こ、この像は、わたしに成都の道観で書状を手渡した老道士とあまりにもそっくりですぞ!」

「しょ、商人どの、こ、この書状の筆跡は孫道人本人のもの、書いてあるのは、

暫当小別、各勉力事善。

しばらくまさに小別すべし、おのおの善を事とするに勉力せよ。

と、これは、道人の最期の言葉とまったくおんなじですのじゃー!」

それで大騒ぎになり、信徒ら集って城南の墓を開いてみたところ、

則空棺矣。

すなわち空棺なり。

やっぱりというか、棺桶は空っぽであった。

道人は神仙となって仙界に赴いたのであろう。ただ道人の冠と履だけが残っていて、その中には数匹の小さな白ネズミが隠れていたが、その白ネズミたちもみなが目を離した一瞬のうちに、かき消えたかのように見えなくなってしまった。

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宋、福建・浦城のひと何遠(←「遠」に「くさかんむり」がつきます)の「春渚紀聞」巻三より。

久しぶりで本格的な「トール・ストーリー」(←米語で「法螺ばなし」というほどの意)を紹介させていただきました。それぐらい訳者が現実の世界に疲れてきている、ということの証しでもございます。というか、「法螺ばなし」ではなく本当のことでしょう。「奇蹟」はわれら人民にとってアヘンのように心を慰めてくれる宝物、どうして「法螺」だなどということができましょうか。

何遠は字を子遠(または子楚)といい、韓青老農と号した。北宋の末ごろのひとで、南宋のはじめごろまで生きていたらしい。今日の孫道人のお話も南宋初期の事件である。おやじは蘇東坡の友人であった何去非というひとだという。

「春渚紀聞」は北宋時代から彼の生きていたころまでの世間の噂や不思議な話などを集めたもの。容斎先生・洪邁の「容斎随筆」にも紹介されているらしいので、今度探しておきます。

 

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